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思い出草 その3 追加

 これは、(   )内の日に入校教育時の日記を清書している


平成22年4月12日 校正すみ 

(昭和18年4月30日)

 入校以来既に2年有半、入校時の新見校長の訓示を読み返すごとに愈其の意味の深さが感ぜられる。入校の感激に打ち震えた心と現在の心との懸隔は我乍ら実に大きなものがあると思う。生徒の本分、海軍の伝統的精神、戦闘の為の軍人・・・日ごと夜ごとの反省に幾度か涙したことも覚えている。足掛4年、江田島に裟婆の人の顔を見る事も無く年中を忙しく送る生活は実に尊い。弘次は兵学校に入れて本当によかったと思う。御世話下さった方々の御恩がひしひしと有難く胸に迫って来る。

 

(昭和18年4月30日)

 昭和15年の11月3日、ふつふつとたぎる様な思いの胸を抑えて中学校からの帰途、豊橋に来て居られた啓子叔母さんに「お目出とう」と言ってあの兵学校合格通知の電報を見せられたときは、一時にどっと押寄せる感情の濤(なみ)に唯うつむくのみであった。本当に御苦労を御掛けしてばかり居た此の5年間、お父さん、お母さんの御喜びは如何であらう。

 いろいろと御世話下さった千田さんの小父様、小母様のこと、心から有難く思はれた。忙しく感慨深い半月を過して11月下旬、江田島に向けて出発した。組主任の原田先生、柔道で長い間御面倒を見て頂いた高橋先生、山口先生、又御近所の鈴木先生、小学校6年、弘次が豊橋に来てから中学校を終える迄ずつと毎日を導いて下さった千葉先生・・・昭朗ちゃん、堀田君を始め多くの級友下級生。其の他親戚の方々等々・・・最後の御挨拶をしてからお母さんに「弘ちゃんあなたはもう家の子ではありませんよ、体に気を付けてしっかり御勉強なさい・・・」と言はれたときには、お父さん、お母さんの弘次を育てて下さった最後の思いやりが偲ばれてならなかった。

(昭和18年5月1日)

 東京、豊橋間以外には伊勢参拝をしただけの弘次も江田島に刻々と近づく嬉しさに長い汽車の旅も苦しいことなく無事呉に着いた。軍港の桟橋に至る通路の入口で番兵に敬礼をして通る、初めて見る呉軍港、朝まだきにドラの音、汽笛サイレンが響き数十隻の軍艦が淡い陽光に鉄の膚を輝かしている。遠くは霧、江田島は見えない。内火艇を指揮して来る候補生の姿・・・ああ憧れのあの姿だ、ずつとみつめる。定期に乗って江田島に渡り小用峠を越えて行く。

(昭和18年5月2日)

 右も左も美しく色づいた蜜柑山、古鷹の峯が一きは高く聳え立ってくっきりと青空を切っている。二川町の町外れの様な軒並が続くとやがて校門である。門衛の指示に従って西田倶楽部に赴く、10数名の先着者が、東北の言葉、九州の言葉をあらわに、あれこれと語り合っている。この時から入校迄の1週間、倶楽部の美しい小母さんの御世話になって思い出深い入校前の日々を送った。身体検査で橋本達敏の尿に蛋白があって後日再検査を申渡されたときなど、小母さんは毎食々々ほうれん草を出して呉れ、皆と一緒に橋本の合格を心配して下さった。弘次達より二つか三つ年上のこの小母さんがどうしてこんなにも立派な立居振舞が出来るのだろうかと不思議に思はれたことすらあった。毎夜の安元中尉の巡検と第20分隊監事水野伝三郎大尉の倶楽部に来られた或日の午後とは忘れ難い印象である。入校教育の指導官になられた元気一杯の青年将校、安元至誠中尉本当に懐かしいオヤヂだった。伝三郎大尉、今日は何処か南海の涯で日夜奮闘して居られることであらう。 

 輝く海軍生徒の入校式も終った。第20分隊伍長の赤堀民雄生徒が生徒館を案内して下さる。通路以外庭と云う庭は全部芝生である。そして塵一つ止めぬ廊下、将又磨き上げられた「リノリユーム」の床、行く処皆清浄の感に胸打たれるばかりである。こんなに綺麗な所に生活するのはいいなあと思った。然し其の晩、直に軍隊の一面を見た、姓名申告―上級生徒の落雷の如き大音声の前には自習室の机の前に居並ぶ新入生徒の精一杯の大声も蚊の鳴声程にも響かぬのである。我も人間、人も人間、我は個人、人も個人、こんなことは2時間の間に粉微塵に吹き飛んでしまった。上級生徒は絶対である。一号生徒の意気は新入四号などにはまるで理解の出来ぬ程激しく高い。蚊の如き早口で小声の姓名申告は何十遍となくやり直しをさせられる。自習室一杯の圧迫感に身も心も死んだかの様であった。裟婆の自由主義、放逸主義が不動の金縛りに遇っているのである。

 

(昭和18年5月3日)

 入校後三日にして鉄拳を味はつた。今から顧みると笑止千万ではあるが裟婆気の致す所亦悲哉である。「ニュース」映画見学許可の報を知るや、がやがやと小銃手人もそこそこに自習室を出ようとした。途端に大声一喝「汝等未だ事の軽重を弁へず兵学校は唯一回の徒食を許さざるなり。常住不断以て練成を努べし」と寸言以て背くべからず、軍紀とは斯くなりとの一端を窺ひたり。

 入校教育は心と体の革命とでも云うべきであらうか、姿婆の中学生の心と兵学校に流れる海軍の精神との隔たりは婆婆の感情を以てしては到底解釈がつけられないものばかりである。教官方の言はれる精神訓育は平易に見えて実は極めて高いものばかりであった。結局心構えを左右はしたが入校当初の四号の心にしては自ら其の根本を錬ると云うことは難しかった。然し起床前から就寝後迄もの上級生徒の誘導は分一分刻一刻と叩き上げられる様な気がした。信念から出る言葉は強く恐ろしい一号生徒にひきかへ三号生徒は実にやさしかつた。弘次の対番の三号生徒は大岡高志生徒であった。何から何迄それこそ何も彼も世話して下さった。弘次は事業服の「ボタン」を縫って頂いたり、軍装の「フック」を付けて頂いたりまでしてもらった。今から考へると実に汗顔の至りである。然し此の下級生に対する奉仕(悪い言葉ではあるが)が強靭な体力と綿密な習慣性の賜であると云うことを知ることが出来たのは、ずっと後のことであった。 

 

(昭和18年5月5日)

 入校当初は就寝後、暗い「ベッド」の中で幾度か涙したことがあった。我儘一杯に育って父母の深い御恩を感ぜずに過した弘次も遠く家を離れては肉親の愛が強く偲ばれて来た。「お母さん」弱虫ではない卑怯ではないが泣いた。昼間は鬼よりも凄い一号生徒が、電灯が消え巡検終りがあると寒いのにわざわざ起きて来て毛布をきっちりと巻き直して下さる。「風邪を引かない様に…静かに眠れ…」 「明日は元気でやれ……」
 短い言葉の中に無限の愛情が感ぜられて、本当に一号生徒は偉いと思った。よい立派な後継者を育む為に一号生徒は一生懸命になって居られるのだと愚かしい四号の心にもはっきりと感ぜられた。一号生徒が昼間大声叱咤されるのは決して怒って居られるのではない、凛然たる軍人の態度と強い信念を示されて剛く厳しく訓へられているのだ。四号には未だ未だあの張り詰めた心構えを持ち続けることは出来ない。しっかりやろう、確かりやらう、お母さんしっかりやります…‥・昼間如何に疲れ果てた四号も夜は安らかな明日への希望を抱いて眠ることが出来るのであった。

 

(昭和18年5月11日)

 一日7時間の訓練と1秒の弛緩も許されぬ生活の入校教育、四号の心と肉体の苦闘は筆舌に尽くし難い、朝から晩まで何糞々々と心では泣きべそをかき乍らも苦闘しつづける。この心構えも三号生徒が陰となり日陽となって導き教えて下さった御蔭である。そしていつも上級生徒の体力の強靭さには一驚を喫した。

 上級生徒は総てのことで皆下級生徒の模範である。上級生徒は下級生徒のすることは何でも全部立派に出来る。指導して下さる時は何時も俺を見ろ、俺の通りにやれ、俺について来いである。

 又、入校教育に於いて手を取り、足を取る様にして親切に教えて呉れた分隊付教員のことは忘れることが出来ない。陸戦は田口教員、あなた方は将校になられるのですからと云って何時も丁寧な言葉でよく教えて呉れた教員、少し前迄は中学生の青二才と云ほれていた者達に将校生徒としての地位の自覚を深めて呉れた教員だった。それから運用は近藤教員、にこやかで元気のよい親切な教員であった。今は学生さんで兵学校に来て居る。

 12月が終りに近づくと四号も大分慣れて来た。真剣にそれこそ一生懸命にやった日は夜自習申休みの集合に該当して痛烈な御達示を受けることがない様になった。此のやれば出来る、立派に出来ると云う自信は未だ未だ小さかったが実に尊いものであった。主任指導官の原田耕作中佐が日本の婦道訓には「主人は無理を言うものと思へ・・・」と云うことがある。お前達は、上級生徒は無理を言うものと思えである。然しこれは将来無理ではないことが次第に解って来る。と口癖の様に言はれたが、事実四号は上級生徒の御達示の真意に半分も触れることが難かしかつた。御達示は怖かった。そして怖さが故に過ちを再びすまいと思うのが半分以上で精神的な大勇猛心を得ることは多くはなかった。そして主任指導官の言はれた無理と云う言葉の意味は実に汎いものであった。

 

(なにわ会ニュース3744頁 昭和52年9月掲載)

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