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最後の予科生徒78期

 昭和2043,78期生徒4,048名の入校式が海軍兵学校針尾分校で挙行された。教頭兼監事長林重親少将が代読した栗田校長の訓示の中に「予科生徒の教程というものは,本校生徒に必要な諸準備を完成する為め課せられて居ると言うことである」とあるように,明治19年に廃止された予科生徒が,59年振りで復活したのである。

 

 勤労動員強化のため体力と基礎学力が低下した中学4年修了者を採用したのでは、将校生徒としての教育を海軍兵学校在校期間中に終了させることが困難であるため,修業年限1か年の予科を設置して,基礎体力と学力の充実をはかった上で本科である海軍兵学校へ入校させるという海軍当局の教育方針に基づいて,予科生徒制度が始められたのである。

 

 昭和311日から昭和6331日までに出生したもので,学歴に制限はないが中学2年修了程度の学力ある者という条件の下に,9万名を越える志願者の中から,内申書で8,000名を選び,昭和1912月上旬から江田島本校で身体検査,学術試験及び口頭試問を行つた。昭和20327日針尾分校に集まった採用予定者に最後の身体検査を行い,中学3年修了者を主として,一部4年終了者及び2年終了者を加えた4,048名に入校を許可した。針尾分校は長崎県東彼杵郡江上村の針尾島に既設の針尾海兵団に隣接して新設され,昭和2031日開校された。同島東南端に位し,南側は大村湾,東側は早岐瀬戸に面していた。生徒館7,講堂7棟のほか雨天体操場,武道館,食堂,浴場等が設けられ,西側の裏山には,江田島本校の八方園に上下を加えるという意味の十方園神社が祭られ,養浩館も設けられた。

 

 約1か月の入校教育の後,基礎普通学と体育に重点を置いた日課が開始された。英語の授業は全部英語で行われ,体操は海軍体操生みの親として知られる堀内豊秋大佐の英語の号令で行われた。陸戦,短艇,游泳等の諸訓練は各部毎に行われ,游泳では佐世保海兵団に入団中の遊佐正憲,鶴田義行両オリンピツク選手の指導を受けた。日曜外出は警報が発令されていない限り許可されたが,クラブはなく市街地は遠く,古鷹山に相当する山もなかったので,校内または島内で休日を送ることが多かった。

 

 敵の九州上陸が考えられるので,山口県防府市に既設の海軍通信学校校舎へ移転することになり,昭和2078日から各部ごとに移転,同月15日以後は事実上防府分校となった。ところが、移転後間もなく敵機来襲が相次ぐようになり,88日には艦載機の空襲によって,生徒館5棟が焼失した。第1部生徒は小郡の嘉川へ,2部生徒は四辻にある防府海軍通信学校へ移転した。防府に残った生徒は講堂を生徒館に兼用して急場を切り抜けたが,各分隊から1,300名におよぶ赤痢患者が発生して,講堂の半数近くが隔離病室と化し,屋外に露天厠を急造して猛烈な下痢に備えるという不測の事態が発生した。815日までに14名の生徒が死亡し,30名の重症患者は復員不能という不運の中で終戦を迎えることになった。

 

 江田島本校では5,6月頃から空襲に備えて木造の北生徒館を解体し,重要施設を地下防空壕に移すための穴掘り作業が6時問交替制によって開始された。その防空壕は御殿山の麓に間口1,高さ1間の入口を10数個掘り,松材の支柱で岩盤の崩れ落ちるのを防ぎ,トロッコのレールを敷きながら次第に広く深く掘り進め,網目状にするもので,各分隊50名が5乃至6班に分れて,穿岩機で穴を掘ったり,ノミでこつこつやったり,ダイナマイトで爆破した岩石をトロッコで運び出す作業を6時間連続して行った。

 

 大原分校でも防災上,8棟の生徒館のうち1棟おきに4棟をとり壊し,本校と同様防空壕掘りが開始された。

 713,江田島は2度目の空襲を受け,機銃掃射によって75期生1名が戦死した。724日には江田内に碇泊中の巡洋艦利根,大淀が艦載機の爆撃を受けて沈没する悲劇を目撃しなければならなかった。

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