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96年前の話   海兵40期の入試・入校

左近允尚敏

平成22年4月12日 校正すみ

一 海兵四十期

 

 われわれ兵七十二期より三十二期先輩に当たる四十期の入試、入校についての資料があるのでご紹介する。九十六年前の明治四十二年、日露戦争の四年後のことである。

 

このクラスは山口多聞、宇垣纏、大西滝治郎、各中将らを輩出した。父親が四十期である兵七十二期は、來島照彦、多田圭太、東郷良一、福田 英の諸君と私の五人。コレスは私が知る限りでは、機五十三期の寺岡恭平君と経三十三期の石黒 広君である。

 

二 入試・入校の日程

〇 明治四十二年一月六日付官報で、海軍省告示として「海軍兵学校生徒一五〇名招募」が出た。

〇 五月二十日身体検査通知、七月十九日身体検査合格通知之証、とある。かなり幅広い日程だったのか。

注・兵七十二期は飯塚勝男君の場合だが、昭和十五年七月二十八日。

〇 学術試験は七月二十五日(代数)に始まり、二十七日、二十九日、三十日、三十一日、八月一日、二日、三日(作文、歴史)に至るまで実に八日間である。不思議なことに口頭試問がない。

注・兵七十二期は学術試験が八月十四日から十七日までの四日間、口頭試問が翌日の十八日。

〇 驚いたことに試験が終わって、わずか十七日後の八月二十日に採用予定通知が出ている。

 

 教官、とりわけ文官教官は随分と忙しかったにちがいない。四日後の八月二十四日の官報で採用予定者の「族籍氏名」が示された。この官報については次項で述べる。

注・兵七十二期の採用予定通知は十一月三日だったから、入試終了の二ヵ月半後。

 

〇九月七日身体検査合格之証(兵学校軍医長)とある。着校月日は書いてない。

注・兵七十二期は十一月二十五日着校、二十六〜二十八日第二次身体検査。

 

〇 九月十一日入校式「生徒を命ず」

注・申すまでもなく兵七十二期は十二月一日入校式。

 

 ここで意外なことに気づいた。四十期は明治四十二年九月十一日に入校し、明治四十五年七月十七日に卒業している。在校二年十ヶ月と六日である。兵七十二期(コレスもそうだが)は二年九ヶ月半、戦争で繰り上げ卒業だったが、四十期もほとんど同じであり、日露戦争が四年前に終わっているのになぜ三年以下だったのか分からない。前後の期を調べたら三十八期は二年十ヶ月弱、三十九期は二年十ヶ月四日、四十一期になって三年三ヶ月、四十二期も同じ。

 

三 官報

(第七八五〇号。明治四十二年八月二十四日)

 

生徒採用

 

〇 本年施行ノ海軍兵学校生徒招募試験ニ及第シ生徒ニ採用セラルベキ予定者ノ族籍氏名左ノ如シ

 

・・・・・・

 

〇 本年施行ノ海軍経理学校生徒召募試験ニ及第シ生徒ニ採用セラルベキ予定者ノ族籍氏名左ノ如シ

 

・・・・

 

○ 兵と経は同日である。機は別の日だったことが分かる。

 

族籍氏名は

 

××()県華族   ×× ××××

 

××()県士族   ×× ××××

 

××()県平民   ×× ××××

 

兵四十期一五〇名について数えてみると

 

華族は四名(三%)、士族は五六名(三七%)、平民は九〇名(六〇%)となっている

 

なお華族は上野正雄、清岡八郎、醍醐忠重、東郷 実の四名。

 

経一期二〇名については

 

士族九名(四五%)、平民一一名(五五%)となっている。

 

 士族は(華族はもちろんだが)国民全体からみれば一握りだったろうから、海軍士官になった割合は高かったと言えそうである。戦後、士族、華族はなくなったが、戦争が終わるまで士族、平民の別は続いたのだろうか。

 

官報記ノ族籍氏名は兵、経いずれも順不同であるから、おそらく入試の成績順であろう。であれば、経一期で経理学校長などを歴任、数年前に日記が『日本海軍地中海遠征記』として出版された片岡覚太郎主計中将は入試の成績もトップである。

 われわれのクラス、コレスについては官報が出たのだろうか?出ているなら、族籍も氏名の前に付いていたのだろうか?出ているなら多分入試の成績順になっていると思われる。ご存じの方は教えて下さい。

  最後に脱線するが、この官報には艦艇の発着が載っている。出雲は八月二一日に横須賀着、三笠は二二日に舞鶴着、千歳は二二日、柏崎発、行き先は小樽、などなど。おおらかな時代だったことが分かる。

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