トップへ    遺墨目次

山本大将の手紙(歴史読本2010年9月号から)

連合艦隊司令長官 山本五十六から

海軍次官沢本頼雄にあてた手紙

 手紙から読み解く山本五十六の心情

放送プロデューサー 田島明朗

 

 山本五十六連合艦隊司令長官(兵三十二期)は、開戦前の昭和十六年八月から戦死(昭和十八年四月)の前月までの間に、沢本頼雄海軍次官(兵三十六期)にあてて八通の手紙を出している。

 この手紙は戦後ずっと沢本家が保管していたが、平成十二年五月、防衛庁(現防衛省)防衛研修所(以下「防研」)に一括寄贈した。

沢本頼雄は筆者の伯父にあり、防研がその後どう汲ってくれたのか気になっていたが、平成十三年三月に防研が発行した「戦史研究年報」第四号に掲載されていることが分かり、防研から一冊を頂戴した。

 ここでは八通の手紙のうち、トラック泊地に進出してからの二通を紹介、内容についての考察と注釈を試みることにする。

 

手紙その1

昭和十七年十一月二十二日

旗艦大和・泊地トラック

    閑  言

一、別便配達願上候

ニ、ガ島より皈来の陸参謀、東京より飛来の陸諸公と会談の印象によれば次曾ガダル攻撃は航空兵力前進死闘に成功させる限り(ガ島敵航空を弱らせる外数回敵輸送船団に打撃を与ふる事等)断じて成功せず、而て此間ブナの確保等口丈けにて実行の決意も成算も陸にはなし 故に敵の出様によりラエ、サラモアモ危険なり。

  従って海軍としては此の上陸にひきつられ兵力漸耗壊滅防止に付深憂遠慮の要あるを咋十一月二十一日ツクヅク感得せり 中央も御緊褌の事

(田島明朗 注)

 字壇纏の戦藻録には「昭和十七年十一月二十一日、一四三〇新第八方面軍司令官今村陸軍中将、加藤参謀長、その他十名来艦、辻中佐より陸戦状況、黒島先任参謀より海軍作戦及び要望等ありて後懇談に入る」と詳述している。この会談で「ガ島とブナ両面作戦は無理ブナ放棄巳むなし」と決まった。

 宇垣は「第八方面軍司令官の指揮権発動は二十六日0000時なり。熱の無きも当然なり。」 と書いている。ブナ警備隊指揮官は十二月二十八日に決別の電報を発した。

 手紙の中の(ツクヅク感得せり)は、陸軍と全く足並の揃わなかった前日十一月二十一日の会談を指すと思われる。

 冒頭の〈別便配達願上候)は女性に手紙と現金を渡す依頼であろう。

 沢本の二男の倫生は生前「五十六サンは艶福家で、手紙の中に(女性3人に手紙と金を渡して呉れ)というのがあった。(戦いは致したく無きものに候)という文章と共によく覚えている」と私あての手紙に記している。

 手紙の本文に女性の名前を書くわけにはゆかず、別封にしてその中に渡す相手の名前を書き入れ、現金を添えたものだと思う。この手紙が見当らないのを非常に残念に思う。

 

手紙その二

 

昭和十八年二月二十三日

旗艦「武蔵」・泊地トラック

 

別級寺岡少将より来信有之候に付一應供貴覧候 内地は石炭も木炭も肉も魚も瓦斯も無之由米なとも四五月頃には悲鳴をあくるにあらずや 理念内閣の実行内閣への改称を祈念する声大なりとか

 

海軍も糧食艦にて鯛やかき等供給し居るも其手数と内地民間の実情をききては満足にのどは通らず候

(時々は腐敗ものにて腹下しもせねばならぬし)

之から先は、陸海軍共米の一部と塩位にてあとは中央の御厄介にならね様せねは軍需増産も国民元気もあったものにあらずと痛感する次第にて南東方面は早速真剣に着手せよと厳命致居候。

(最近ラボールより今村八方面軍司令官来訪)

 陸軍は二年後には米でも何でも全部自給自足する考えなりと気焔を吐き居候 陸軍は自給自足より少し先に戦闘に勝つ工夫の確立が肝要ならん。あまり戦がへた過ぎる 判断が(小生義弟が某支隊長なるに籍口してヅケヅケ言いおきたり)出鱈目過ぎると申し置き候が陸軍はガ島にこり敵よりは食糧を主目標とし居るらしく今次の来訪もニューギニヤ補給に潜水艦×八 常置の嘆願にてワウ攻略は今秋、モレスビーなどは其の上にて能否をゆっくり考えるという話にて

(山本親雄大佐には話し置候 話にならぬ話にて候)

    *   *   *

 仄聞すれは年頭早々より掘軍医土木中将に満款せしめられ居らるるとか左様のことにては増産も如何のものかと少々心細き次第に候

 夫れに付 小生昨年十一月頃より右手の薬指小指しびれ−進一退あるも治らずガ島作戦終了迄皆が心配するからだまって居り過般艦隊軍医長に診て貰いし処(誰にも言うなとは申し置たり)多分ビタミンBC(ことにB)の不足によるなるべしとの事 外に右背中に肉と皮がくっついたりはなれたりする様の具合のこと毎日時々あり 之も何様の原因ならむとて強カビタミン剤を十日筒注射せるも効果あった様の無き様の様子一寸強力剤もなくなり目下休憩観測中

(両足首のはれは昔からにて別に進みもせず)

若しビタミン剤にて治らぬとすれば病原は何かに付自案せる処、之は多分永年雀遊を廃し右手の運動不足に起因するならむと名判斬を下せし次第にて此治療法を試し度も目下之のみ実行し得す遺憾に存居候

    *   *   *

諺に国乱れて落首飛ぶとか真ならざるをいのる

一、「総理大臣闇取引奨励のこと(某代議士通信)

東条か奈良の都をさまよいてあけぬ巷に闇をねきらふ

 (奈良市に於いて某日未明街頭視察)

ニ、買い物のこと(軍部(海軍にあらず)中央高官の直話)

 買い物は星に錨に顔に闇 馬鹿正直は行列で泣く

武井歌の守の採点願度存候

   *    *    *

 過日平洋丸にて遭難、海上漂流三日の後被救トッラク来着せる海軍省後援慰問団、声楽、舞踊、浪曲、漫才、手品師等(一行十名中副団長−名殉鳴 あと女五、男四)は激励の結果大いに奮起し兵隊の防暑服にて遠くマーシャル(大鳥島を含む)ラボール方面まで出かけ偉勲を泰し皈着近く氷川丸にて慰問なから(三月−日頃着か)内地へ帰る予定の由 当司令部にては副官か盛餐を与へ小生より色紙を一枚強奪して引揚げたるが女子供にてもいざとなればなかなか大したものと関心致候

喪失品の贈与等に付いてはケチケチ言わずに気持ちよく与へて下され度存居候(兵隊は其の芸よりも遭難奮起の其の気分に大に感銘せりとか 尤も次第と存じ條)

余寒御自愛祈上候

敬具

223

山本五十六

  澤本中将閣下

 

(田島明朗 注)

食料のことがいろいろ出ている。内地の食料統制は十四年の米穀通帳制度に遡るが、本格的な配給統制は十七年二月の食料管理法の制定で、米麦などの主食は全部政府が買い上げ、食料営団を通じて配給することに決められ、配給量は一般男女一日二合三勺に制限された。これはたてまえであり、やがて遅配・欠配が日常のことになる。公定価格は米一升五十銭だったが、闇値は十八年の暮で六倍、最高七十倍の記録がある。

 トラックには、この時期まだ糧食艦が回航でき「伊良湖」や「間宮」が入港すると、旗艦の内火艇が一番に必要物件を取りに行くしきたりだったが、鯛はともかくとして牡蠣まで南方に運んでいたことには驚かされる。冷蔵、冷凍設備があるといっても(腐敗ものにて腹下し)というのは少しひどい。

 この手紙で注目したいのは、山本の陸軍の態度に対する遠慮のない批判である。

(陸軍は自給自足より少し先に戦闘に勝つ工夫の確立が肝要ならむ あまり戦がへた過ぎる 判断が出鱈目過きる)は、口にするならともかく手紙として残っているのはめずらしい。この書きぶりは陸軍の態度を腹に据えかねたものであろう。

 堀悌吉(山本と同期の兵三十二期、予備役海軍中将)のことを「軍医土木中将」と呼ぶのは聞いたことがない。堀が社長をしていた浦賀船渠は船台の拡張が続いていた頃だから土木はその意味か。それにしても軍医は不可解である。

 ビタミン注射のことだが、河合千代子宛の最後の手紙には(ヴィタミンBCの混合液を四十本注射して貰ってもうすっかり能くなりました)と安心させており、沢本あての「目下休憩観測中」と微妙な差がある。右手のしびれが(永とし雀遊を廃し右手の運動不足に起因〉は思い付きにしても秀逸である。

 落首を二首書いている。〈武井歌の守)は、海軍省経理局長武井大助主計中将を指す。山本の和歌の師範格であり、山本はいつもこう呼んでいた。

 輸送船で沈没、漂流後トラックにたどり着いた海軍省後援慰問団が舞台を務めたのは「武蔵」が旗艦になつた紀元節の「幾日かたったある日」だから二月中旬のことになる。

 最後の(別封河合氏へ御渡被下度〉は相当の額の現金だと思われる。

 (同人も近く転向の趣に候〉は、千代子が商売を廃める意味だが、これは千代子宛の最後の手紙から判断して、三十間堀の「梅野島」を朋輩芸妓の梅駒にあとを引き継がせ、千代子自身は神谷町に引き込むことを指している。

字垣参謀長、藤井、渡初などの参謀連がトラックから出張で帰京した時、千代子は神谷町の家でもてなしているから、ここも小さな料亭くらいの構えはあったのだろう。

 梅野島を閉じて転向する資金か、部下が受けた馳走の礼か、いずれにしても山本が戦死したあと、沢本が次官金庫から出して堀悌吉に渡し、堀が「山本のアラの口止め料です」と縁のあった人に渡して廻った「手の切れるような(新札ばかり揃えた)百円札十六枚」とは別の現金になる。

 以上沢本にあてた8通の手紙のうち2通を取り上げ、山本の意向を忖度し、手紙の背景を述べて来た。

 連合艦隊司令長官が、トラックの旗艦「武蔵」からラボールに進出した理由については諸説あるが、筆者は須崎勝弥氏が「プレジデント」(19815月号)に寄せた一文を最も説得性があると考える。

 大意は「ラボールの陸上基地航空隊は南東方面艦隊司令長官草鹿任一中将の指揮下にあった。

 空母からラボールの基地に移って来て戦う第3艦隊の長官は小沢冶三郎中将であり、兵学校のクラスは同じでも草鹿が先任であるために、母艦部隊の搭乗員は草鹿の指揮下に入ることになる。

 それでは母艦搭乗員のプライドが許さないと言い出し、やむなく山本が出向いて両者を合わせて指揮せざるを得ないと云う事情である。」

 山本の墓は、郷里長岡の山本家の墓所に立てられているものが本家だが、分骨された遺骨は武蔵小金井の多磨霊園に東郷元帥と隣り合って納められ、沢本頼雄の墓も同じ多磨霊園にある。

トップへ    遺墨目次