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故塚本 純君の家族への最後の手紙

(昭和19年1月躯逐艦凉月より御家族への最後の手紙。
凉月はその直後の1月16日被雷沈没)

皆々様

永らく御無沙汰しました。皆様お変り有りませんか、色々と事の多かった昭和18年も瞬く間に終ってしまひました。さて今年の19年は如何なる年でしょうか、今年のお正月は如何でしたか、静かなお正月だったことでしょう。でも誰も大病する者も無く無事に皆年を迎へる事が出来たのは何よりの幸です。私も丁度元旦の朝、太平洋の真只中で初日の出を拝みました。恐らく私は誰よりも一番先に初日の出を見たわけです。朝は少しばかり餅の入ったお雑煮が出ました。この後の私は又とない貴重な見学をすることが出来ましたが詳しいことは、何れ又帰宅の際の土産話として残して置きましょう。

将に今年こそは一大消耗戦と一大補給戦との最高頂となる年でしょう。駆逐艦乗組である私共は之が護衛として目の廻る忙しさが来ると共に反面には地味な然も極めて重大任務でしょう。丁度縁の下の力持といったものでしょう。あの花々しい航空戦に較べると毎日空と海を眺めての単調極り無いものです。然も時には山の如き怒涛(事実全く山の様な波です)風速20数米の寒風烈風、猛烈なスコール等私共の前には必ず比等が待って居ります。しかし私は幸いにも如何なる暴風雨に会っても少しも船酔いもせず敢然として任務に従事することが出来る様になりました。少し位船に弱くても馴れればすぐ強くなるものだといふことを知りました。又時には鏡の様な静かな海面をそよ風に吹かれながら滑る如く走る時は又と無い気持のよいもので甲板に椅子を持出して海を眺めて居ますと軍艦に乗っているといった気持を忘れてしまって、大洋航路の客船で何処か外国を旅行している様な錯覚に陥るとときもありました。

しかし我々目の前には何時敵の潜水艦が出て魚雷を放すかも知れません。何時我々は海底の藻屑となるかも知れぬ身であることを思い起しては、はっと我に返って心が引き締まる感が有ります。我々は軍人である以上いざという時の心構えを常に身の内に蔵って置かなければならぬと自分で自分を戒しめて居ります。と同時に家の方でもそれ相応の覚悟と心構えを持って戴きたいと思ひます。とんだ方向に話が曲ってしまいましたが、要するに我々は今最も活躍すべき時にあり、現に着々と重大任務を果しつつあります。

お蔭様で私は毎日元気で風邪一つひくことも無く勤務に励んで居ります。駆逐艦とは云へ居住性はよい方ですし、又食事は外では見られぬ御馳走です。唯運動不足になり勝ちですが、自分で常に心掛けて体操をやれば健康の方は完全です。

私の配置は航海士兼一分隊士、三分隊士、五番機銃指搾官の四つを兼持っています。これで大分勉強しなければならぬことになりました。・

駆逐艦は港に入れば休養です。艦長、司令等は入港の日から出港の日まで上陸して帰って来られないのが普通です。士官室も大部分は上陸してしまいます。残るは泊り無き候補生即ち私です。別に行きたい所もありませんから朝から自分のやりたい放題の事をして書物を読んだり字を書いたりラジオを聴いたりレコードをかけたりして、一人で楽しんで居ります。これに手紙でも来れば又と無い喜びです。上陸したくなれば夕方上って最終定期で帰って来ます。映画を見るか本屋をあさるかレコードを買う位のものです。

又つまらぬ事ばかり書いてしまいました。

姉上その後如何でしょうか、寒さも相当厳しい時ですから呉々も注意して下さい。父上は相変らず御元気の事と思います。母上は如何ですか、今度羊羹が少しばかり手に入りましたので何日か東京に用事の有る人に頼んでお送りしたいとその機会を見付けております。恭子ちゃんも相変らず元気でしょうね。お正月にお餅を食べ過ぎないだらうかと思って心配していますよ。希望の上の学校に入れればよいがと祈っています。私のとった写其どうなりましたか、よく撮れていたならは送って下さい。

真は是非ともしっかり勉強して下さい。今しっかりやっとけば将来どの方面に行きたくなっても自由に行けますからね。勉強しないと私の様に一つの方面しか選べなくなってしまいます。              

いろいろ長々と書きました。又これで当分御無沙汰しなければならぬでしょう。

皆様の御健康を遥かに祈って己みません。′

せんさんにもよろしく。

           

 

荒波の長き船路もつつが無く  我が船今ぞ つとめ果しぬ

誰か知る大鳥島の一角に  初日の出をば 我の拝むを

(一月十六日午後受信)

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