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海軍中尉 大森 茂の兄宛の手紙

大正13年3月20日生

(神風特攻・第23金剛隊、昭和20年1月6日、フィリピン方面にて戦死。21才)

 謹啓

 常夏の国より一筆啓上仕り候。

 内地は年の暮れの事とてさぞかし心忙しきことと存じ居り候。寒さも日一日と加わり、兄上様初め皆様如何お過ごし候やお伺い申し上げ候。茂はお陰様にて何時も元気に敵を待ちて、張り切り居り候えば何卒御安心下され度(たく)候。

 当地の風景風俗の一端をお知らせ参らすべく候。先ず上空より見下ろしたる感は、強い光を反射する緑の葉の間に、赤き瓦、白き洋館の立ち並ぶいと物珍しく夢見る心地致し候。

 されど一度(ひとたび)散歩すれば、緑の並木広き街に住む者の汚さにて、町の美は零に等しく感ぜられ候。美は人の心の反映にして、その国の人の性格より割り出され、醸し出されるものと思考いたし候。

 上層階級と下層階級の差異の甚だしくして、中層者の無く、これら人種の下層階級者の目を覆わしめる如き汚さ賎しさは実に想像以上にして、そのため南国一の大都市も清き日本人には唯々馬鹿々々しく感ぜられ、かくしてこれら人種は恥を知らず、働くを知らず、日中よりデレッとせる姿にて身には男にして赤き、青き派手な気障なシャツを纏てブラつき、その太々しき怠惰な様は唯憤慨の種にて、私達は街を歩くにも睨み倒す意気にて闊歩いたし居り候。しかして最初はこちらを卑しき目もて見つめ居るをグット一睨み与ふれば視線をそらし、道を譲りて行き過ぎ、誠に笑止千万にこれ有り候。

 子供と片言の英語交じりにて語るも懐かしく、心癒し感あるも、やはり日本の子供の如き純真さ、強き誇り、正直な点は見られず、唯小賢しく恥を知らず、彼等人種の劣等性を表し居り候。祖国を離れ真に祖国の美しさ有り難さを感ぜられ候。あの最後に見たる神々しき清々しき端麗なる富士の白嶺こそ、我が神州の姿にして、三千年来築き来たりし伝統精神を以って護り行くべきものと強く信じ居り候。などで外夷(がいい)の専恣(せんし)を黙視せんや、彼等こそ徹底的に粉砕すべきなりと期する心の奮い立つを禁じ得ざる次第に御座候。街の風景の報知より憤慨を記し候えしも、とに角、茂の第一印象は右に記したるものに御座候。(昔の手紙は殆どタテ書き故)

 戦線に立ちて実に今日までの考えの如何に生易しきものなりしやを感ぜられ、恥じ入る次第に有之(これあり)候。内地に在りし時、関大尉の神風隊を真に感激し、時局を推察し、我も々々と奮起せし者果たして幾人ありや。私は斯々(シシ、この事についての意?)喚びたき心一杯にして、当時茂も遺憾ながら今日程痛切には感ぜざりしを、深く々々恥じ入り居る次第にして、前線に立ち得て、生易しき眠りより醒めたるを幸福と存じ居り候。

 当地に来て未だ敵の爆撃も無く、比較的のんびりとは過ごし居り候も敵の来るを殲滅を期し待ち居り候。搭乗員は概ね私達と同じ年齢又はそれ以下にて、若き者の集いの事とて張り切り振りは断然他に遜色なしと絶対に信じ居り候。始めて部下という者を持ち、その重責と光栄に唯々感激のみ。大森家の先祖にも顔向けし得るを深く喜びと致し居り候。

 南の黄昏(たそがれ)は短く、陽が西海に入りなんとするやサット没し去り忽ちにして暗黒の街と化し、今尚テロの跳梁する街は、不気味な感致し候。前線に到りて尚手紙を書かんとする茂は未練者とお笑い下され度(たく)、唯暇を見い出し書きしものにして、何卒御免下され度、後は便りを差し上げざれば、茂は元気に戦場に駆けるものとお考え下され度候。

 タミも来春は卒業、何一つ兄らしきこともせずに過ごし来たりしも、兄上様より宜しくお願い申しあげ候。

 御身御大切に。                  草々 

(ネットより)

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