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日本の近代遺産50選「明治・大将・昭和」の足跡を訪ねて

あこがれの「江田島」 海軍士官を養成  日米戦で多数の犠牲

旧生徒館(第2生徒館) 現在海上自衛隊幹部候補生学校 白亜の大講堂

 

「貴様と俺とは同期の桜 同じ兵学校の庭に咲く・・・」ご存知軍歌「同期の桜」で歌われる兵学校とは、旧日本海軍の士官を養成した海軍兵学校(略して海兵)のことである。

その海兵は広島湾に浮かぶ江田島にあった。海軍鎮守府と巨大軍需工場のあった対岸の呉と併せ日本軍最大の拠点、江田島は海軍軍人のふるさとだった。

 

人づくり優先

 

 旧兵学校を訪ねて、まず驚くのが華麗な建物群である。白砂青松の地に名建築の数々が往時の姿のまま立ち並んでいるのだ。

 正面の門を入ると右手に大講堂。御影石で造られた白亜の殿堂だ。次いで新旧の生徒館。右側の旧生徒館は赤煉瓦造りの二階建てで、「海兵」のシンボル建築。お雇い外国人の英国建築家が明治に設計した。奥の教育参考館は、昭和前期の建築。六本の門柱がそそり立ちギリシャ神殿のようだ。

 古鷹山を背にした生徒館の前には全面芝生の広大なグラウンドが広がる。ちり一つない校庭に立つと、思わず背筋を伸ばしてしまう。これらの建築群は今も海上自衛隊が幹部教育などに使っており、見学を受け入れている。

 明治新政府が発足して間もなく布告強兵の柱として海兵は生まれた。海軍事始めは、船を造ることより人づくりを優先した。

初めは、東京・築地に置いたが、一八八八年(明治二十一年)、江田島に移った。紅灯縁酒の誘惑多い東京をあえて避け、呉の海軍鎮守府が睨み利かす島しょを選んだ。以後、敗戦による閉校までの七十七年、日本海軍の栄光と落日をそのまま体現してきた。

江田島の名を全国にとどろかせたのは、入学が大変な狭き門だったこと。旧制一高と肩を並べる程の最難関校だった。官費全寮制で、制服に短剣を帯び、国を背負って立つ誇り、これ等が人気の秘密だった。学生は艦隊指揮官となる基礎教育をみっちり受けた。教育は典型的な和魂洋才型。英国風紳士の育成が伝統で、英語教育も最後まで続けた。規律はきびしいが、開明的な校風だった。

 

戦後復興の担い手

日露戦争での日本海海戦の大勝利が栄光の要点で、それから四十年後に落日が訪れる。一九四一年(昭和十六年)の十二月八日に始まる太平洋戦争。開戦の直後に呉で誕生した戦艦大和は落日の象徴となった。不沈戦艦と(うた)われながら艦隊決戦の機会もないまま、沖縄特攻の作戦に出撃、三千人の将兵と共に海の藻屑(もくず)と消えた。

海兵卒業生の総合計一万千余人のうち戦公死者四千人を超すが、その九五%は太平洋戦争の犠牲者である。日清、日露から日中戦争までは五%に過ぎない。海戦直前に江田島を巣立った青年士官たちの実に三人に二人が帰らぬ身となった。

戦後、敗戦の原因に江田島教育の失敗を挙げる意見もあった。沈黙を美風とする伝統が開戦を防げなかった。大艦巨砲を前提とした軍事教育は航空機優先の時代に乗り遅れた。成績順にハンモック(根床)の順番を決め、卒業時の席次が昇進を左右する「ハンモックナンバー」システムに問題があった・・・などだ。

戦後の日本は短期間に経済復興を成し遂げたが、呉と江田島もその一翼を担った。呉の旧海軍工場はマンモスタンカーを建造する巨大造船所に変わった。終戦時一万人以上いた江田島の在校生は復員し、新生日本のリーダー的存在となった。江田島人脈は各界の要職を占めた。

呉市は三年前の「大和ミュージアム」を立ち上げ盛況だ。戦艦大和の十分の一模型が目玉だが、科学技術やモノづくりをテーマにした多くの展示がある。呉・江田島に集積する海軍関連遺産は、多くのことを語りかけてくれる。

備考

この記事は、六九期会報「南十字星」第三〇号にあった日本経済新聞の記事である。

 

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