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なにわ会のブログ 23年8月の1

平成238月のブログ

8月1日

戦没者

 66年前 昭和20

  林 清之輔(13 潜水艦) 中部太平洋で

 20711トラックに向け大湊出撃、以後消息を絶つ(戦死認定)

(米護衛空母アンツオ艦上機の爆撃及び艦艇の攻撃により20716・沈没;米軍資料)

国内の被害

 B−2450機弱 

    長崎を攻撃、魚雷艇102号を損傷。 

 B−25隊とP-51隊 

    長崎を攻撃、貨物船きんこう丸、タンカーただ丸を損傷。

 B−24隊は

    鹿屋を攻撃。

 P47隊、

    80機以上は川内、

 P47隊とP−51

   伊丹、名古屋、大阪地区を攻撃。沈没ははやぶさ丸(長崎県西彼杵半島西方海上)

 B−29

   169機 八王子  173機 富山  125機 長岡  160機 水戸  120機 川崎  17機 適宜の目標 を夜間攻撃。喪失1機。  137機 下関海峡ほかに 機雷投下。

 

私の父は42期で戦時中17カ月低速8節の特務艦鶴見の艦長としてご奉公し、鶴見退艦後1911月から終戦の208月まで51戦隊(新しく就役した駆逐艦や海防艦の訓練指導に当たる部隊)に勤務していた。その詳細な日記が残っていたのでこれを取り込んで↓のとおりHPに掲載してある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/0-0-seisenmokuji1.html

 

そして、父の想い出を書いた本がある。その中から両者の関係を拾ってみた。

69期の姫野修氏の記事から

51戦隊である日、黄金丸の艦上で対潜図演が行われた時、演習の進行、指導を卓越した指導官付樋口 直大尉に任せて布袋様さながらの温顔で無言の儘図演を統裁される伊藤指導官・・・」

 

73期の剛家義顕氏の記事から

 父が51戦隊の先任指導官で剛家氏が指導官でそこに勤務していた。その時の想い出の記事である。

「ある時、ガンルーム(ケップガンは72期の樋口大尉で船尾にその公室があった。)で巡検後総員の会合があり、アルコールが入りオクターブが高くなった時、突然ドアが開き、ご尊父が大喝、「静かにしろ、君達は下士官兵がなんと思っているか判らんか」と言われスツと帰られた。」

 

8月2日

戦没者

 67年前 昭和19年 

  福岡利三(56警)テニアン島で敵上陸部隊と交戦後玉砕

 66年前 昭和20年 なし

 早や8月になりました。終戦から66年、随分昔のことになりました。我々が生まれた大正12年(1923年)頃の66年前といえば安政4年(1858年)で、明治元年(1868年)のさらに10年も前になる。慶應の前の安政の時代、日米通商条約が締結された年になるので、私は詳しいことは何も知っていない。

現在20歳の年齢の青年が太平洋戦争の事、詳しいことを知らないのも当然と思われるほど、太平洋戦争はそんな大昔の事になってしまった。

 左近允尚敏君が執筆した「敗戦」(副題「1975年春と夏」)に本土周辺の戦闘、空襲の状況が細部にわたって出ている。当時の事を思い出していただければと思い、昨日から15日まで毎日、65年前のその日の事を転載します。

 

 米軍の攻撃

  B−24隊は、片岡を攻撃。

  貨物船さんとう丸(新潟沖)触雷沈没:

 上野三郎君から元気な電話を貰った。彼は昨日書いた父の聖戦日記を読んで感想を語って呉れた。と同時に、最近戸塚カントリークラブに行ってゴルフを楽しんだことも話して呉れた。

 

 向井寿三郎君から電話があり本山和男君の事を語って呉れた。

 

8月3日

戦没者

 66年前 昭和20

  山下正也(上海空 戦闘機)九州北西洋上でダグラス輸送機に便乗し、上海発佐世保に向かう途中、五島沖にて敵戦闘機の攻撃を受け戦死

  関谷 年男(戦402 整備) 比島イバスラ方面カテガイで戦病死

 

米軍の攻撃

 P−40、P−51100機弱は、東京地区を攻撃。

 触雷沈没:

  貨物船たいれつ丸(神戸沖)。輸送船あが丸(たかたかお?)。

  貨物船おおしょう丸(敦賀)。こくよ丸(へさき)。

  しょうたい丸(伏木)。

 原因不明損傷:

  貨物船たいい丸(からす島)

 

8月4日

戦没者

 67年前 昭和19年 

  成行 剛(松 駆逐艦)小笠原方面で敵艦上機の攻撃を受け沈没戦死

 戦後物故者無し。

 

米軍の攻撃

 B−25隊は、九州各地を攻撃。
    触雷沈没:貨物船こうしん丸(大阪沖)。

 

85

戦没者・戦後物故者共になし

 

65年前の被害 昭和2085

 B−24隊、

  B−25 84機、A−26 32機、P−47 97機、P−51 48

   九州各地を攻撃。

  P−51 100機以上  東京地区を攻撃。

  B−29  64機    今治

      63機    佐賀

      92機    前橋

     250機    西宮

     106機    宇部

      10機 適宜の目標  を攻撃

      27機 各地の港湾に機雷投下

 潜水艦ポギー 貨物船としらさん丸を撃沈(秋田沖)。

 触雷損傷:輸送艦T2号(こいわ島沖)、貨物船にっしょう丸(七尾)

      タンカー第32よしとも丸(げんかい島沖)

 航空攻撃による損傷:貨物船いき丸(はまだ沖)

 座礁沈没:駆潜特務艇第25ひの丸(豊後水道)

 

86

戦没者・戦後物故者共になし

 

1945昭和20年)8月6午前815広島市への原子爆弾が投下された

 6145分にテニアンから離陸し、広島上空へ向かった。テニアン島から広島市までは約7時間の飛行である。

当日79分に警戒警報が発令されたが、そのまま敵機は広島上空を通過離脱したため、731分に解除された。8時すぎ、B-29少数機(報告では2機であったが、実際には3機)が日本側によって捕捉された。813分、中国軍管区司令部は警戒警報の発令を決定したが、各機関への警報伝達は間に合わなかった。89分、エノラ・ゲイ号は広島市街を目視で確認した。中国軍管区司令部が警報発令の準備をしている間に、エノラ・ゲイ号は広島市上空に到達していた。高度は31,600ft9,632m)、812分、エノラ・ゲイが攻撃始点(IP)に到達したことを確認、81517秒、原爆投下された。

これは世界最初の核兵器攻撃で、この一発で当時の広島市の人口35万人(推定)のうち約14万人が死亡したとされる。

この時運悪く広島原爆に遭遇して,812日に亡くなった秋田実君の事を思い出す。なにわ会だより第001号に掲載しHPにも取り込んであるが、伊157潜の航海長であった彼が砲術長に代わって艦長のお供をして広島に行き、原爆投下に遭遇した。この記事を再読して秋田君の冥福を祈ろう。

 

米軍攻撃による被害

 A−26、P−47150機以上

   都城を攻撃。

 B−24、B−25、P−47、計70機以上

   鹿児島を攻撃。

 B−25、P−51、計60機以上

   対馬海峡、沖縄北方の海上目標を攻撃。

     撃沈:貨物船第7しゅんたい丸、こうわ丸(つの島沖)。

 混成の航空機隊

   内海、四国西部、本州南部、沖縄北方の適宜の目標を攻撃。

 戦闘爆撃機100機弱

   東京地区を攻撃。

 空母機による損傷:

   海防艦37号、機雷敷設艇きょうさい丸(野島沖)

 爆撃による損傷:

   機雷敷設艇きんじょう丸(九十九里浜沖)  

触雷沈没:

   貨物船第2ちょうかい丸(伏木沖)、いそじま丸(下関海峡)、

   こうざん丸(松山西方の海上)

 

87

戦没者

67年前 昭和19

  勝賀野純義(長良 巡洋艦) 本邦南西方海面で敵潜の雷撃を受け沈没戦死

 

戦後物故者なし。

 

米軍攻撃の被害

 B−29124機(P−51、P−47が護衛) 徳山を攻撃。

     30機     下関海峡、舞鶴沖に機雷投下。

 B−24隊、A−26隊  築城を攻撃

 B−24隊、      大牟田、片岡を攻撃。

 B−25隊、      知覧、出水を攻撃。

 戦闘爆撃隊、     九州各地を攻撃。

 触雷沈没:      貨物船きびつ丸(平磯沖)

 爆撃による損傷:   商船けいざん丸(九州ひの島沖)

 

88

戦没者・戦後物故者共になし

 

米軍等の攻撃

 B−29221機 八幡を昼間攻撃

      60機 東京   同上

      91機 福山   同上  喪失7機。

 戦闘爆撃機、100機以上 大阪地区を攻撃。

 B−24隊、B−25隊、A−26隊、P−47隊 九州各地を攻撃。

 B−299 1機  福山を夜間焼夷弾攻撃。

 極東空軍の爆撃機、戦闘爆撃機 沖縄北部を攻撃。

 駆逐艦カシン マーカス島北西250マイルで病院船きく丸を臨検、違反事項ないため横須賀に航行を許可。

 B−24、B−25、A−26、P−51、P−47の各隊 

    九州各地と対馬海峡付近の海上目標を攻撃。

    撃沈:貨物船しょうかい丸、めがみ丸。

    触雷損傷:貨物船しんざん丸(神戸沖)、てんざん丸(釜石沖)

 

左近允尚敏君から85日の移動までの海上自衛隊高級幹部のリストを送っていただいたのでHPの高級幹部一覧を訂正した。

 

8月9日

戦没者 

 

 66年前 昭和20

  松浦 繁(偵12 偵察) マニラ上空で

   台南発マニラ強行偵察に向かい消息を絶つ(彩雲)

 

戦後物故者無し。

 

昭和208月9、午前1102分、長崎市に対し原爆が投下され、長崎市の人24万人(推定)のうち約149千人が死没、建物は約36%が全焼または全半壊した。此の原爆機は始め小倉に向かったが視界不良のため、目的地を長崎に変更攻撃した。

 

米軍等の攻撃

 B−2995機        尼崎を夜間攻撃。

 B−24隊          岩国、松山を攻撃。

 B−25隊          鹿屋、別府湾、鶴崎、対馬海峡を攻撃。

 B−25隊、A−20隊     鹿屋、串木野、島平を攻撃。

 P−47、P−51、計200機  九州、四国、沖縄北部を攻撃。

 空母機           本州北部、北海道、日本海を攻撃。

  沈没     駆潜特務艇しんとう丸、貨物船第2こんごう丸、

         第6たくなん丸、掃海艇W1号、

         W33号、タンカーじゅうこう丸、

         貨物船第36ばんしゅう丸。

 米英空母機   女川沖で海防艦・天草、稲城を撃沈。

 駆逐艦ポリー  いわきの東方140マイルで神風機により損傷。

 戦艦、巡洋艦からなる部隊(英軽巡2隻を含む) 釜石を砲撃。

 

 ソ連軍が満州に侵攻してきた。

 ソ連機   海防艦82号を日本海で撃沈。

       商船かさど丸、第27りゅうほう丸をオホーツク海で撃沈。

この日最高戦争指導会議が行われた。その時の発言 

  東郷外相:国体の護持さえできればあらゆる苦痛も我慢する。

  阿南陸相:戦局は互角である。

  米内海相:戦争は互角というが明らかに負けている。

  阿南陸相:会戦では負けているが戦争では負けていない。

梅津参謀総長と豊田軍令部総長は陸相と同意見であった。

閣議はまとまらないまま解散。

 午後11時50分から御前における最高戦争指導会議が開かれ、平沼枢密院議長も加わった。

鈴木首相は「意見の一致を見ないのは遺憾であるが、ことは重大、事態は緊迫しており遅延を許さない。聖断を仰ぐしかない」と述べ天皇の御前に進んでおことばをお願いした。

天皇は「自分は外相の案に同意である。・・・・」と仰せられ、鈴木首相は聖断を以て会議の結論とすると述べ会議を終えた。(以上 左近允尚敏君の敗戦から引用)

 

8月10

戦没者

 67年前 昭和19

  三浦政一(54警 警備隊) グアム島で敵上陸部隊と交戦後玉砕

 

戦後物故者なし

 

 最高戦争指導会議は午前2時半終了。ボッタム宣言受諾の聖断が下った。

 

この日の米軍等の攻撃

 B−2970

  東京を攻撃。

 B−2480機、A−26、B−25、計118機、P−38とP−47、計220機 

  熊本地区を攻撃。

 B−2420

  大分を攻撃。

 B−2540機弱

  対馬沖の艦船を攻撃。

 P−47

  佐世保港を攻撃。

 P−51

  本州、九州の適宜の目標を攻撃。

 空母機(英空母機も参加)

  本州北部の飛行場、艦船、鉄道を攻撃 

  沈没:駆潜特務艇42号、掃海特務艇W1号(山田湾)、

     掃海特務艇第2こんごう丸、駆潜特務艇第6たくなん丸(女川沖)

     貨物船まさよし丸、タンカー第3なんき丸(酒田港)

     貨物船第5にしき丸(八戸港)

  損傷:敷設特務艇こうえい丸(大湊沖)、貨物船とよたま丸(酒田沖)

 B−25

  九州沖と対馬海峡の艦船を攻撃。

   沈没:貨物船うじな丸、まねい丸、第7ほせい丸、しょふこ丸。

   損傷:哨戒特務艇84号、陸軍貨物船もりひめ丸、哨戒艇194号。

 B−2931

  下関海峡、萩沖などに機雷投下。

    触雷沈没:貨物船しんじょ丸(姫路沖)。

    触雷損傷:哨戒艇63号(七尾湾)、貨物船つしま丸(場所不明)、

         第12にっしょう丸(越前沖)、タンカー第8きんゆう丸(舞鶴港)

 ソ連機の攻撃

  オオーツク海で貨物船かさど丸と第2りゅうほう丸を撃沈。

 

なにわ会だより第5号近く完成発送しますが、今回印刷屋の手違いで240部の印刷をお願いした所300部印刷したそうです。それで、60部程余計に出来ますので、ご希望の方には2部送ることが可能になりました。2部でも送料は同じです。ご希望の方は折り返しメール等で希望部数お知らせ下さい。

 

811

戦没者・戦後物故者共になし

 

米軍等の攻撃

 爆撃機と戦闘爆撃機、530

 九州、内海、対馬海峡の目標を攻撃。

 空母機

 呉において駆逐艦・樺、伊36潜、伊359潜、伊402潜を攻撃損傷。

 潜水艦ジャオラ

 日本海で貨物船ていほく丸を撃沈。

 触雷沈没:第2にっしん丸(若松燈台沖)。

 触雷損傷:輸送艦166号(金輪岩沖)。

 

印刷屋からなにわ会だより第5号が送られてきた。これからアルバイトにお願いして封筒に入れて発送します。

 

 昨日自称特4号生徒の田島明朗氏から次のメールを頂いた。

『1日のブログを拝読して御尊父ご勤務の51戦隊「黄金丸」とあるのを見つけ、「どこかで聞いたフネだ」と思い「帝国海軍残存艦隊」という本を引っ張り出したところ、何と私が戦後高松→天保山を乗船したフネだと思い出しました。同書によれば「黄金丸は昭和118月に就航した当時まだ珍しいデイーゼル小型豪華客船で大阪〜別府航路の人気船だった。1905トン、L74.5mW12m速力13ノット、乗客900名。18年8月徴用、特設運送艦となり、大阪警備府、佐伯*岩国*大分航空隊、別府海軍病院などの間を絶えず往復人員や荷物の輸送にあたり、206月現在、潜水艦母艦筑紫丸と共に呉鎮守府でただ2隻の特設運送艦となった」とあり51戦隊配属迄は記録されていません。21年から24年まで朝鮮からの引揚げ船を勤め、元の内海航路に復帰しています。(以下略)』

 このようになにわ会のHPやブログを見てコメントやメールを頂くととても嬉しく剥げも二なります。なお、51戦隊に配属されたのはネットで調べたら、舞鶴鎮守府部隊に51戦隊旗艦「黄金丸」がありました。

 

8月12日の戦没者

 67年前 昭和19

  久保田 裕(館山空 戦闘機)

   千葉県で飛行訓練中事故(空中火災)のため不時着殉職(零戦)

 66年前 昭和20

  大塩貞夫(302空 戦闘機)

   佐世保上空で本土来襲の敵機迎撃のため基地出撃、これと交戦被弾、墜落戦死(紫電)

 

米軍等の攻撃

 B−24隊    

   松山飛行場を攻撃。

 B−25、A−26の隊

   知覧、鹿屋を攻撃.

 A−20、A−26、P−47の隊

   阿久根、串木野、宮崎を攻撃。

 B−25と戦闘爆撃機の隊

   九州、沖縄北部、対馬海峡の艦船と通信施設を攻撃。

 沈没;哨戒特務艇166号(浦崎沖)、貨物船きたなみ丸(みしま燈台沖)。

 B−244

   片岡を攻撃。

 B−243

   すりばち飛行場を攻撃。

   台風接近のため空母機の攻撃はやめになった。

 軽巡3、駆逐艦12から成る水上部隊

   松輪島、くらぶ岬、すりばち湾、パラムシロを砲撃。

   これに先立ちオホーツク海の監視艇(トローラ) 10隻を撃沈。 

 触雷沈没:第1しんよう丸(北九州)。

 触雷損傷:貨物船ゆらかわ丸(若松燈台沖)、

        陸軍貨物船第16たもん丸(七尾湾)

 

その他

戦艦ペンシルバニア 沖縄沖で航空魚雷により損傷。

 58潜 沖縄からレイテに向っていたドック型揚陸艦に対し、回天を発進させたが成功しなかった。

 

なにわ会だより第5号発送終了。

 

左近允尚敏君から次のメールを貰った。

『池田君から「矢矧海戦記」を頂戴して読んだのですが、井上校長が着任直後、自分が指揮した珊瑚海海戦の話をしたと、内容まで書いてあります。全然記憶がないのですが、ご記憶ですか?

中村悌次生徒隊付幹事は「井上校長は、戦争の話をすることは一切まかりならんと、帰ってきた教官に、生徒に対して戦争の話をすることを禁じたことです」(中村著「生涯海軍士官」)と書いていますが、本当であれば矛盾していますね。

また井上校長は鉄拳制裁を一切禁止したとありますが、小生はなかったと思います。1号は結構殴っていました。

3日ほど前、三好夫人から電話をいただきました。』

私も井上校長の珊瑚海海戦のはなしは記憶にありませんし、鉄拳制裁金鵄のことも記憶ありません。もし、この件、記憶ある方が居られたらご連絡ください。

 

小西愛明君から電話を貰った。

714日にブログに書いてくれた伊33潜の記事について、山本省吾君がその記事を書いてくれた人を調べてくれて、その方と連絡がとれたそうです。』

 

813

65年前の昭和20813

 米軍等敵の攻撃

 空母部隊

   地上の日本機を攻撃、250機を破壊、149機を損傷。

 B−24、B−25

   瀬戸内海、九州朝鮮間の艦船を攻撃。

    撃沈:哨戒特務艇あやなみ丸。

    損傷:貨物船たつきり丸、とうせい丸。

 戦闘爆撃隊

   九州を攻撃。

 別のB−24

   柏原を攻撃。

 潜水艦アツール

   北海道沿岸において海防艦6号を撃沈、16号を損傷。

 潜水艦トークス

   日本海において貨物船かいほう丸を撃沈。

 潜水艦スパイクフィッシュ

   沖縄沖において伊373潜を撃沈。

 

74期の三上博康君(1学年47分隊)は3ヶ月ほど前に検査で肺ガンといわれていた。722日に入院し、26日に手術、結果は良好で、8月9日無事退院した。

 右肺の下部に8センチと云う巨大な癌がありながら、奇跡的に転移しておらず(PET診断)、さりとて陽子線治療では無理とて、切開外科治療となった。癌の巨大さと横隔膜との隣接が問題であったが、名医揃いの病院とて極めてスムーズに手術は完了したようである。(74期談話室の投稿より)

この記事に対し、16名のコメントが入っており、74期お談話室は非常にうまく運営されていて羨ましい。

 

814日 

 日本ポッタム宣言受諾(ワシントン時間の14日)。

 

 戦没者

  66年前 昭和20

    武田晴郎(伊373潜水艦)東支那海で

    2089作戦輸送のため台湾に向け佐世保出撃、以後消息を絶つ

    (米潜水艦スパイグフィッシュの雷撃により813沈没:米軍資料) 

 

戦後物故者なし

 

 米軍等の攻撃

  B−29 57

        光工廠を攻撃。

       45

        大阪を攻撃。

      108

        まりふの鉄道施設を攻撃。

       8

        適宜の目標を攻撃。

 硫黄島の戦闘爆撃機、160機以上

        名古屋地区の飛行場、軍事目標を攻撃。

 

14日の夜から15日の未明にかけて

  B−2986機 

        伊勢崎を攻撃。

      81機 

        熊谷を攻撃。

      132機 

        土崎の石油精製所を攻撃。

      39

        下関海峡、七尾、舞鶴、浜田沖に機雷敷設。

       2

        適宜の目標を攻撃。

 B−29が帰投する前にトルーマン大統領は、敵対行動の停止を声明。

   

  触雷沈没:貨物船ひろた丸(六連沖)、貨物船かまさん丸(?)。

       貨物船よじょう丸(大阪湾)、かしま丸(釜山東方沖)。

 潜水艦ト−クス

       日本海で海防艦13号、47号を撃沈。

 沈没:航空攻撃により第6はとかわ丸(九州田ノ浦沖)。

 損傷:貨物船第5しんこう丸(青海島沖)、

     貨物船たつすく丸(壱岐北東沖)

 

8月15

今日は終戦記念日である。

 

戦没者・戦後物故者共になし

 

この日の米軍の行動

 空母機、103機は0415に東京地区攻撃のため発進したが、先頭の編隊が目標上空にきたとき、敵対行動中止の命令がきた。しかし邀撃した日本戦闘機との戦闘は終日続いた。

 貨物船やまびし丸は対馬沖で航空攻撃により損傷。

 午後、空母機73機による攻撃はニミッツからハルゼーあての命令によって取りやめとなった。

 空母部隊は東京の100ないし200マイル沖に退避。

(以上81日以降掲載してきた被害状況は、左近允尚敏君の「1945年 春と夏 敗戦」から引用した。)

 

「厚木航空隊では、前夜、ポッタム宣言受諾の報が伝わり、パイロットは慨嘆、悲憤慷慨。翌15日、グラマン数編隊、鹿島上空に飛来。厚木302空の全機発進。蔵元善兼中尉(53期蔵元正浩氏弟、兵73期)は真っ先に出撃。厚木上空でF6Fと交戦、被弾のため戦死された。(機55期HPから)

 

終戦までの戦没者、

海軍 兵学校72期 625名中335名  54%

海軍機関学校53期 111名中 57名  51%

海軍経理学校33期  51名中 20名  31%

 

2階級特進者

海軍 兵学校72期生 神風38名 回天 8名 計46名 7.36%

海軍機関学校53期生 神風 5名 回天 5名 計10 9.01

合計 神風で43名、回天で13名 総計56名の級友が命を捧げている。

誠にいたわしい次第で、謹んで改めてご冥福を祈る。

 

終戦の思い出60件の記事の分析から

水上艦艇5名、

潜水艦16名(外地停泊2名、内地停泊6名、行動中3名、艤装員2名、学生3名)、

航空部隊21名(シンガポール1名、台湾1名、朝鮮2名、内地17名)

蛟竜7名、

海竜2名、

震洋3名、

陸上5名であった。

如何に戦力が無くなっていたかがよく分る。

 

上野三郎君のメールから

老化予防をめざした社会参加指針。

1.毎日一回は外出しょう

2.家庭での役割をもとう

3.地域参加・社会参加の場をもとう

 

昨日高松道雄君から727日のブログに書いた和歌山県のMさん(44歳)の『伊号第401潜水艦』について電話を貰った。彼はMさんに電話で矢田君を紹介したそうである。

そして、今朝Mさんから次のメール(要旨のみ)を頂いた。

『先日は御無理なお願いをして申し訳ありません。 

おかげ様で、 本日、 富山の高松様より 御電話をいただき、 神奈川の矢田様の連絡先を御紹介いただきました。

数日内に、 お手紙と写真をお送りしてみようと思います。 御協力に篤く御礼申し上げます。

別ルートで最近、 艦長の 南部伸清様にも お手紙と写真をお届けいたしました。息子さんの 忠恭様に 御仲介いただき、 喜んでいただいたようで、 たいへん嬉しい限りです。 100歳で御健在というのに、 やはり 強運の持ち主なのだなと思いました。』 

(続き)

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