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なにわ会のブログ 22年 2月

21日 202月の戦没者

早や2月になりました。65年前の昭和202月には30名の会友が戦没しています。その内訳は艦艇僅か1名、潜水艦1名、、航空はなんと24名、回天1名、震洋2名、陸上1名です。戦える艦艇が激減し、敵機の本土空爆が始まっています。 

20年2月の機関科の戦死者  斎藤 義衛

19年は無く、20年に3名。その一人回天散華の川崎の遺影は、遊就館の神の間の第一室入り口最初にあり、私は年に数回訪れるが最初に駆けつけるのは川崎の遺影!彼は今尚生きている!

23日 65年前の元旦 

昨日書きこんで呉れた斎藤義衛君から65年前の元旦という記事を送ってもらった。今から66年前の昭和1911日巡洋艦能代での事である。HPに取り込んだので見て頂きたい。この3日後の1 4日に関根利彦君(皐月 駆逐艦)が ビスマルク諸島で敵中型機の大編隊と交戦中、銃撃を受けて戦死している。

私は5戦隊羽黒で1月3日 トラックを出港してカビエンに向かい、5日早朝カビエンに到着。2時間で陸軍部隊の揚陸を完了して最大戦速でトラックに帰った。

機関科の戦死者         斎藤義衛

 機関科の戦死1号は19.1.12の石井、機関科111名の内31名が水上、そして戦死した者18名、その内艦が沈没して戦死したもの15名、何れも機関室ならん、他の3名は注排水などの配置ならん。

生存者13名の内5名は乗艦沈没、その内3名は戦後死去!

現在生き残るは村山・齋藤のみ。

機関科の沈没を知る貴重品!

水上艦艇組が少なきは、盲目的戦死を厭い攻撃的戦死をとパイロット・潜水艦・整備を志向したせいならん!

私は191、1のカビエンの戦闘で確実に戦死第1号となっていた?

(能代はトラックからカビエンへの輸送作戦の際194411日カビエンで揚陸中に空襲を受け50kg爆弾を2発被弾して中破。)

 
24日 ブログ書き込みの標準手順

昨日堀剣二郎君から「ブログ書き込みの標準手順を知らされたし。」というメールを頂いたので、電話してその手順を話して理解してもらった。

ブログ書き込みの標準手順は次の通り。

1 まずなにわ会のブログを開く。

2 右の方の海軍兵学校の写真の上にある トップ ログイン の ログイン を クリックする。

3 画面が変わります。

4 その画面の左端にある エキサイトID の下の空白に naniwa-navy と半角で入れる。

5 次にその下にある パスワード の下の空白に パスワードの数字6ケタを入れる。

6 その下にあるログインの字の上をクリックする。

7 画面が変わってなにわ会のブログが出てくる。

8 右の方の海軍兵学校に写真の上にある トップ 投稿 設定 の投稿をクリックする。

9 画面が変わって投稿画面になる。

10 一番上のカテゴリの右 選択 の右の下向き矢印をクリックして出て来た中から適当なもの 例えば報告を選んでその字をクリックする。選んだ字がカテゴリーの空白の所に入る。

11 次にタイトルの所に 題名  名前 を書きこむ。たとえば なにわ会ブログについて          伊藤正敬 のように。

12 その下の方にある広い空白に投稿文を書きこむ。

13 この枠でなく、全体の広い枠の右端を使って、全体画面を一番下までさげる。

14 一番下の方にある送信をクリックする。

15 画面が変わる。

16 真ん中にある マイブログへ を クリックする。

17 投稿した記事がブログに現れる。

18 5番目のパスワードは兵 機 経の数字6桁です。

 

是非試して投稿してください。おかしい書き込みや間違いがあれば私が削除しますのでご心配なく。

分らない方はパソコンを立上げ、なにわ会ブログを開いてお電話下さい。手順を説明します。


27日 会員の書き込み

今日は堀剣二郎君が3通も書きこんで呉れて、とても嬉しかった。

そして、斎藤義衛君は立派な携帯電話をお持ちで、その携帯から同じ要領で書き込みが出来ることが分った。近く書きこんで頂けると期待している。

124日にブログに書いた大分県の佐伯市生まれで、数年ほど前から、昭和19年から終戦迄の佐伯に関する物語を書いておられる山本さんから、お書きになっている原稿約250枚を送って頂いた。

拝読して、非常に面白く、とても素人の書かれたものとは思われず、 語彙といい、文脈、構成、筋書き、プロット、文章ともに、小説仕立ての自分史になっており、驚いております。72期の佐伯空関連の会員の描写も随分あります。

近く上京されて会いたいとの事、樋口直君と一緒にお会いする予定。なにわ会HPが取りもった縁のお話です。

飛行中の銃砲弾の視認状況について 堀 剣二郎 (1)

タイトルについては写真もないようなので経験をかきます。                   兵学校の生徒の頃、戦艦伊勢へ高角砲の対空射撃の見学に行った。高角砲は口径12、7cm(5インチ)の2連装であつた。

 高射長の 山口三郎大尉から発射された弾丸はよく見えるから注意してみるようにと訓示されて、見学の位置についた。標的は吹き流しで飛行機が曳航する。当日は雲量10の曇天であつたが雲高が高いので射撃は行われた。 射撃が始まると成程よく見えた。黒い豆の様な弾丸は2発ずつ緩い曲線を描いて飛び標的の近くで破裂した。 生まれて初めて弾丸が飛ぶ さまを見、また、弾道が曲線であるのに驚いた。 重力の下で飛ぶので上下は放物線になることは当然であるが目の当たりにすると驚く。  当日、弾丸がこのようによく見えたのは、雲が背景となって弾丸を際立たせたこと。観察者が他に任務を持たず集中して観測し得たことが原因と思われる。以後卒業してから対空戦闘で自分の乗艦は砲身のペイントが焼けるほど射撃しても、また海上自衛隊では3インチ砲3門の砲術長もやらせてもらったが、砲弾が飛ぶのは見たことがない。自分の艦に飛来する爆弾、機銃弾は以下に述べるようにその多くを見たが。

 

飛行中の銃砲弾の視認状況について 堀 剣二郎 (2)

爆弾

 航空機が水平飛行中に行う水平爆撃の爆弾は大型で私が経験したものは200キロ級のものであつた。 

 駆逐艦浦波一隻にB-25,20機が3機一組の編隊爆撃を繰返し行ったが命中弾はゼロであった。この時は艦長は艦橋を出て無蓋の旗甲板から爆撃回避の操舵号令を下しわたしは号令を操舵員に

伝えるに忙しく時どき落下中の大型爆弾を水面近くで見るにとどまり近接中の視認はしていない。

 この戦闘は巡洋艦 鬼怒と2隻で比島ミンダナオ海で1944.10.25に起きたもので、鬼怒の戦記はつたえる。   10月25日早朝第16戦隊(2隻)はモロタイ島より出撃したB-25、56機と護衛のP-38,37機より執拗な水平爆撃をうけたが、至近弾の嵐を掻い潜りながらカガヤンにむかった。

 飛行機が目標に向け降下中に行う降下爆撃は艦が係留中でうごかぬ時に受けた経験がある。爆弾は投下された瞬間から見え、投下機と連れ立って向かってくる。60〜70Kgの爆弾が砲丸投げの砲丸と同じ大きさの感じである。3個が同時に投下されたこれ等の爆弾は艦の右正横  5メートルに弾着した。海底が泥であつた故か爆発起こらず艦は大揺れしただけであった。天候は晴れ雲量5〜6太陽光線は強くなかった。

飛行中の銃砲弾の視認状況について 堀 剣二郎 (3)

 機銃弾

  米軍機の機関銃は口径6.6〜7.7ミリで弾丸は多くの場合、曵光弾で発射直後は、赤、黄、青と美しいが飛行中黒くなり小豆ぐらいの大きさでとんでくる。連続する弾丸の前後距離は、

クラスの中川好成君(艦爆操、理博)にきくと、簡単に計算できて、約1.5メートルとのこと。危険度は空いた艦橋の窓、艦橋後部の両舷にある出入り口を抜けてくるもの及び天井を貫通してくるものは、要注意である。その他の部分たとえば艦橋の窓の下の部分などに命中しても大部分兆弾となる。  

 

28日 水雷艇の夜襲       堀 剣二郎

 私がよく思い出す「水雷艇の夜襲」は2月8日だったと思い検索したところ 2月4日でした。

  歌詞       

 月は隠れて海暗き   2月4日の夜の空

  闇を知るべに探り入る   我軍9隻の水雷艇

 

210日 70期森田先輩よりお手紙       齋藤義衛

ブログ投稿の縁で、70期森田先輩より彗星偵察機の奮戦記を戴く。森田隊長のペアーの操縦は我がクラスの小山兄!初めて小山兄の奮戦と最後を知る!23日の鎌倉での蔵元の激励昼食会で披露、小山兄を偲ぶ。 

212日 69期会報

69期の会報30号を頂いた。わが一号生徒は21年末で29名(卒業生の8.4%、終戦時生存者の22%)となっている。

この中の記事から。

1 21年度靖國神社慰霊祭を211010日に実施、ご遺族・親族59名 クラスメイト7名 物故者遺族3名 計69名が参加している。

2 平野 晃様がH21. 12.27逝去されている。  

3 会員の現状(21.12.31現在)は次のとおり。

  入校時360名 卒業時343名 戦没214名 

終戦時復員129名 現在の健在者29名 

4 記事はA574頁、近況報告ガ8頁 投稿記事が4編、

消息が4

69期はご遺族のなかから世話人ガ選ばれて会の面倒を見て おられる。会報もご遺族の手で編集されている。

 

213

21年度会計報告を窪添龍輝君から頂いた。これでなにわ会だより第2号の原稿が全部まとまった。

1月末の会の基金残高は1,177,028円であった。なにわ会だよりの印刷製本代(編集費、発送費を加えて)1回約30万円とみて1年で60万円、22年一杯は何とか賄えるが,23年には不足することが予想される。9月発送の第3号に振り込み用紙を同封して会員、遺族会員にご寄付をお願いしたいと考えている。

 

215

『海の武士道』と題した駆逐艦雷が撃沈された英国艦隊乗員を救助↓した記事が先日頂いた69期会会報にあった。雷艦長工藤俊作少佐(兵51期)は駆逐艦エンカウンター乗員等400余名を救助する。このことは恵隆之介氏が平成2012月出版発売された本(定価1,680円)に詳述されてる。その要旨をスラバヤ沖海戦での敵兵救助作業という題名でHP

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senki-surabayaoki-kudou.html

に取り込んだ。

なお、「雷」に救助された「エンカウンター」砲術士官であった元海軍中尉サムエル・フォール氏は、戦後は外交官として活躍したが、恩人の工藤の消息を探し続けていた。彼が工藤の消息を探し当てた時には既に他界していたが、せめて工藤の墓参と遺族へ感謝を伝えようと2003年に来日した。しかしそれらを実現できなかったため、惠隆之介氏に依頼した結果、200412月に墓所等の所在が判明した。そのことはフォールへ報告され、翌年1月に恵は墓参等を代理して行った。その後、2008127日、フォールは66年の時間を経て、駐日イギリス大使館附海軍武官付き添いのもと、埼玉県川口市内の工藤の墓前に念願の墓参りを遂げ、感謝の思いを伝えた。

216日 米軍空襲

この日、米軍は硫黄島への攻撃を開始。19日に上陸をはじめた。そして東京には(B29−2機、艦上機−290機、による空襲があり、これの迎撃に向かって多数の戦死者を出した忘れられない日である。 

217日 19年トラック大空襲

昭和19年のこの日 トラック島が大空襲を受けた。

東カロリン諸島のトラック島は太平洋における日本海軍最大の根拠地であり「日本の真珠湾」と言われた。

2月17・18日の両日にわたり、米機動部隊艦載機の大空襲を受け、我が軍は補充機135機を含め在島の約300機を失った。艦艇は軽巡「香取」(5,890トン)以下、「那珂」「舞風」「文月」「追風」「太刀風」、駆潜艇2隻、魚雷艇1隻が沈没し、水上機母艦「秋津島」(4,650トン)など11隻が損傷した。船舶は特設潜水母艦「平安丸」(11,614トン)以下32隻が沈没の憂き目にあった。

この船舶の内 「辰羽丸」(5,784トン)と、別に米潜水艦「タンク」に撃沈された「暁天丸」(6,854トン)とには、トラック島増強のため輸送中の第52師団(金沢)の第2梯団(松本の歩兵第150連隊主力)と富山の歩兵第69連隊の一部とが乗って居り、約1,800名は救助されたが約700人は戦死した。地上の戦死傷者は約600名に及んだ。

他に燃料17,000トンを焼失する等損害は大で、トラック島の戦略的価値は消滅した。この為 日本軍は事後の太平洋作戦の遂行は困難となった。

 

鎮魂 齋藤

機関科の2月の戦死、190203。川崎(回天千早隊、硫黄島)・堀(整備、比島)、吉盛(戦闘機、台中上空)2月は硫黄島攻防戦、パイロットの散華多数!兵科の村田氏は長野中私の一期上、又硫黄島守備の栗林中将は長野中先輩!硫黄島ではクラスの合志が凄惨な死闘中! 黙祷★

 

鎮魂 齋藤

飯島は私と長野付属、長野中と同級生。長野善光寺境内の忠霊殿の長野県特攻殉国の碑に、機51期の國安氏と並びその名をとどむ。硫黄島では合志(整備)が死闘中! 黙祷★

 

2月22日 Y氏上京

124日のブログに書いた福岡県に住んでおられるY氏ガ明日上京され、横浜で樋口直君と共にお会いすることになった。Y氏は大分県の佐伯市生まれで、数年ほど前から、昭和19年から終戦迄の佐伯に関する物語を書いておられ、その中に当時の事を物語風に纏められている。その記事の材料としてなにわ会HPの記事を活用され、樋口 直君、遺族会員の岡野様の記事を利用しているので、是非ご挨拶したいとお見えになることになった。

このなにわ会HPは会員以外の方もよくご覧になっているようで随分お役に立っているようである。

ウィキペディア(Wikipedia)で レイテ作戦 の所に次の記事があった。

「戦記目次」『なにわ会』内 海軍兵学校72期、海軍機関学校53期、海軍経理学校33期の合同クラス会。レイテ海戦時の各艦乗組員の回顧録多数。特に大和に通信士官として乗艦し、戦後日本大学理工学部教授となり、各文献を丹念に検討した都竹卓郎「「大和」艦橋から見たレイテ海戦」を参考とした。

このほか、左近允尚敏君、小灘利春君、池田武邦君の記事も随分活用されている。

 

223日 Y氏

今日は1000から1600まで横浜で、Y氏と樋口直君、岡野様と一緒にお会いして、彼が近く出版される九州佐伯の昭和19年、20年の物語について話あった。Y氏、本当によく調べておられて驚いた。

 

226日 226事件

昭和11年のこの日、斎藤義衛君が思い出を書いて呉れたように、226事件が起った。次のHPを見て当時を思い出した。

http://ja.wikipedia.org/wiki/226%E4%BA%8B%E4%BB%B6

この中に次の記述があった。

『伯爵牧野伸顕は、欧米協調主義を採り、かつて内大臣として天皇の側近にあったことから襲撃を受けた。

河野寿航空兵大尉は民間人を主体とした襲撃部隊(河野大尉以下8人)を指揮し、湯河原の伊藤屋旅館の元別館である「光風荘」にいた牧野伸顕前内府を襲撃した。警護の巡査皆川義孝は河野らに拳銃を突きつけられて案内を要求され、従う振りをしつつ、振り向きざまに発砲し、襲撃部隊の大尉河野及び予備役曹長宮田晃を負傷させた。襲撃部隊によって皆川巡査は殺害されたが、これによって牧野は襲撃を受けずにすんだ。

東京第一衛戍病院に収容されていた河野大尉が35日に自殺を図り、6日午前640分に死亡した。』

 

思い出、226事件          齋藤

昭和11年のこの日、私は小5、信州も雪降る日であった。テレビも無くラジオも少ない時代、号外でこの異変を知る。そして此の事件に我が縁者が関わっているとは知るよしも無かった。その縁者とは所沢陸軍航空大尉河野寿である。湯河原攻撃隊長として牧野伸顕を襲い失敗!負傷し熱海陸軍病院に収容されるも自刃し刑死を免れる。父君は海兵13期河野左金太少将、三笠引き上げに功績ありと。

 

228日 なにわ会だより3号完成

2月も今日で終わり、月日の経つのがなんと早いことでしょう。

なにわ会だより第2号、昨日クロネコで発送した。明日か明後日着くと思う。今度も記事が多くて76頁にもなった。記事が多いという事は編集担当として嬉しいことである。会員の協力のお蔭で感謝している。

2号のうち、桂理平君への弔辞、秋田稔君の最後、園田勇君のこと、昨日の敵は今日の友をHPに取り込んだ。

昨日小西愛明君から樋口幹君が転居した事を教えてもらった。会員、遺族会員の転居等変更された時はその都度、名簿も担当している伊藤正敬に知らせて下さい。郵便の時は転居後、暫くは新しい住所に転送されますが、クロネコ利用の場合は返却され、二重手間になる。万一ご不幸があった場合もお知らせ頂けるようご家族に言い伝えておいてほしい。ご協力お願いする。

 

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