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平成22年5月15日 校正すみ

吉田 義彦君を偲んで

三好 文彦

 悲しいニュースをお伝えしなければなりません。吉田義彦君が亡くなったのです。

平成2年11月14日、午後10時50分ごろ、久留米市の聖マリヤ病院で。病名は心不全。

十六日の告別式では、なにわ会を代表して大坪久幸君が弔辞を読んだ。

吉田君は、同年2月20日、いろりを囲んでの夕餉のあと、突然に意識を失い、救急車で聖マリヤ病院の集中治療室へ。それから約10カ月間、ご令室自江さまはじめど家族の懸命な看護と祈りもむなしく、その治療室で、ついに還らぬ人となったのである。68歳の生涯であった。

吉田君が入院中ときいたのは、昨年4月18日の夜であった。大谷君が、同年4月17日付の吉田夫人の 「会員だより」(なにわ会ニュース63号P26参照)をみて、第一報を福岡の大熊君へ。あと伊集院君からわが家へと、それは廻り廻っての連絡であった。19日、三好が病院へ。ついで22日に小野、大坪、花田君らが病床を訪ね‥吉田君の容態の重さを語り合った。とはいえ、15日の吉田家からの訃報をきいて「ああ、やっぱり駄目だったのか」とショックは大きかった。

筑後市のアポロ電子工業梶iアイシー関係の企業)に籍をおいていた吉田君は、数年前の不況時は、人員整理などの難題の処理にあたり、業績向上につれ、こん度は工場の拡充や資金のやりくりに駈け廻る。加えて、3年前の株式市場への上場に際しては経理担当者として重責にあたるなど、常に会社の中枢の人であったようだ。

このような多忙な日々であったが、当地でのクラス会には必ず出席していた。海軍が無性に好きであったのだろう。はかの海軍関係の会合にも、よく顔を出していた。

その吉田君は、いつも寡黙であった。酒席では、「男は黙って酒を飲む。」 そんな言葉通り、酔った風情など微塵もみせず、黙々と盃を重ねていた。しかも味のある飲みたかが、いまも私には忘れられない。

吉田君は、16震洋隊々長として、八丈島で終戦をむかえている。当時の仲間で結成したのが八丈会で、会長吉田君は、その会合で八丈島はじめ各地に、こまめに出かけていたと、奥さまから聞いた。

16日の告別式に、大阪から駈けつけた八丈会の北川行孝幹事は「吉田部隊長、あなたは、われわれのシンボルでした。その火が消えて残念でなりません。」と追悼の言葉を結んでいる。終戦も間近に結成された16震洋隊は、数カ月で解散と短い寿命であったが、愛称「オヤジ」の吉田君につながる隊員の思いは深いものがあったのだろう。八丈沖の海のように。

謹んで、吉田義彦君のご冥福をお祈りいたします。

なお、クラスの会葬者は、当日連絡がとれた次の通りである。

通夜 11月14日

伊集院正年、小野義市、大坪久幸、中林正彦、花田武彦、三好文彦

告別式 15日

伊集院正年、小野義市、大坪久幸、花田武彦

(平成3年1月5日記)

(なにわ会ニュース64号18頁 平成3年3月掲載)

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