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平成22年5月15日 校正すみ

吉田 博君の死を悼む

高田 俊彦

前後のクラスでは物故者が相次ぐ中で、海軍経理学校第33期は30年以上も欠ける者の無いのを誇りにしておりましたが、残念ながら11月5日午後10時半過ぎ、吉田博君が急性心不全にて急逝されました。

翌早朝同じ福岡在住の刀根君から通報を受け驚愕(きょうがく)しました。一昨年の奈良、昨年の南九州と秋の旅行には御夫妻で参加され、独特の大きな、して元気な声で、共に語り共に歌ったがついこの間のことであり、全く信じられませんでした。通夜、葬儀等は刀根君に全面的にお願いし、葬儀には鹿児島の山之内君も参列しました。謹んで哀悼の意を表します。

  

吉田さん、あなたは一昨夜突如として幽明境を異にされ、今ここに、御家族、諸先輩、友人知己の方々の見守る中、返らぬ旅立ちをされようとしています。

思えば遥か40有余年の昔、希望と期待に胸を脹らませて、東京築地の海軍経理学校の門を潜ったのは良かったが、早速始まる猛訓練にべそをかきあったのも懐かしい思い出になりました。以後3年足らずの間、同じ釜の飯を食い、一綿に風呂に入って、そして卒業しましたが、その間、兄のユニークな、ほほえましき言動は、クラスメートの中に数々のエピソードを残してくれました。そして、卒業後、我々が前線に配備された頃は、既に戦運我に利あらず、それこそ毎日が死出の旅路の日々が続きました。その厳しい戦闘航海の中で、兄が主計長として南方へ輸送する軍需物資の中に、女性の化粧品を満載してジャワ方面に陸揚げし、「そして非常にもてた」という話に、我々は片時の喝采を送ったものでした。

戦後我々は、或は自衛隊に、或は企業に、また税務会計の道に、多くは分れ進みました。

私は兄と同じ道に進みましたが、その間兄の啓発と鞭撻(べんたつ)を受けること大でありました。また、一時病を得て、筑豊の地に蟄居(ちっきょ)していた時、度々陋屋(ろうおく)を訪ねて、都の風を(もたら)鼓舞(こぶ)激励してくれたのもあなたでした。兄は往時より、記憶力抜群にして、学校時代に「祇園精舎の鐘の声、諸行無情の響きあり」に始まる平家物語の表編を、流麗に聞かせてくれたものでした。

ことあらぬか、一昨日の出来事は、兄の得意なりし平家物語冒頭の一節を地で行く如きものでありました。

兄は記憶力が人に抜きんでている分だけ、歯に着せる衣が寸たらずとなり、建前なしの本音人生を貫いてこられたものと推察しています。そして、また、私はその中に、愛すべき稚気とロマンを垣間見てきたように思っています。

もう兄のストレートな発言を聞くことが出来なくなったと思うと、しみじみと淋しさを感じるのであります。半世紀に亙る交友、ほんとうに有難うございました。

昭和61年11月7日

刀根 康之

(なにわ会ニュース56号20頁 昭和62年3月掲載)

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