TOPへ     物故目次

平成22年5月15日 校正すみ

山根眞樹生君を偲ぶ

桂 理平


 平成20年9月3日未明、我が畏()友山根真樹生君が急逝した。私は同日夕方クラス会連絡網のFaxで、この訃報を知ったのだが、吃驚仰天した。一時は誤報ではないかと思い問合わせた処、厳粛な事実と確認した次第である。

 実は8月下旬に彼と夜中(2100頃)に電話で長い会話を約30分していたのである。私は今年8月15日の終戦記念日の日付で、なにわ会誌(100号)に載せる為に書いた小冊子「比島沖海戦における小沢艦隊(囮(おとり)部隊)の戦闘」を送るので、読んで見てくれと頼んだ事に対する返事の電話であった。

 電話からは元気な声が伝わって来て、その上今迄にない長い会話の交換をしたのであった。その内容は概ね次のようであった。

1、あの時(小沢艦隊の戦闘を指す)は生死を超越して、自分の任務に邁進(まいしん)した。自分の生死については全く忘れていた。然し、乗組んでいた空母瑞鳳は武運拙なく、敵の多数の飛行機の攻撃により撃沈されたが、我々クラスの4名(山根、比沢、石上、桂)は運強く生き残った。この戦いは我々個人にとっても生涯のハイライトであった。

 生き残った者はこの戦いの真相を次代の人に語り継ぐべき責任を負ったと考えるべきだと確認し合った。

2、あの時から半世紀以上の64年の歳月が過ぎた。戦後の生活については夫々の道を歩み、比沢と石上は既に他界してしまったが、我々は今日も尚生きているが、歳月の経過により相応に気力、体力の減退を自覚する現在となっている。

  持病の大動脈瘤(りゅう)破裂の心配を抱えているが、今のところ、無事であるのを感謝している。来月には更に安心の為に、療養中の妻が入っているマンションの上の階に引っ越す予定にしている。

  現在の調子だと、なお2乃至(ないし)3年位は大丈夫と思うので、病気と仲良く付き合い、不慮の事故に遭わぬよう、毎日を注意して過ごそうと約束して、長電話を切ったのであった。

それから1週間も経たない9月3日に訃報を聞くとは思いも依らぬ事なので、実に残念無念極まりなく言葉が出なかった。生活の場所は関東と関西に別れていたが、互いに心の支えとして励ましあっていたのである。

 改めてその死を厳粛な事実として受け止め、心からの哀悼の意を表す次第である。

 京都に住んでいる山本省吾君は山根君とは四号生徒の時、同じ分隊で過ごした仲間だった。私の話を聞いて早速電話をしたら、全く同じように昔話と近況を話し合って大変懐かしかったし、嬉しかった。急な訃報を聞いてから、良くあの時に電話したものだと思っている。

 更に、不思議な一致点があったことをお話したい。

 ご遺族様の知らせによると、彼の戒名は「瑞鳳院悟道宗眞居士」と聞いている。

私は自分の考えとして自分の戒名は自分で付ける積もりで、長い間色々と考えて来た。

 空母瑞鳳に乗って大戦に参加して、人生を開眼する第一歩が始まった。そこで戒名でも始まりは『瑞鳳院』と決めたのはもう50年以上も前だった。今回図らずも、彼も瑞鳳院と称している。偶然の一致だが、私には納得が出来るのだ。瑞鳳で出会って以後の彼との交際は公私に渡って素晴らしかったと申し上げる事が出来る。皆さん、私の心からの叫びを汲み取って下されば誠に幸いである。

人は皆早かれ遅かれいずれは彼岸に行く。君は先に逝ってしまったが、天命に依る所で致し方ない。改めてご冥福を祈り申上げる。

 山根君、 安らかに

(なにわ会ニュース100号112頁 平成21年3月掲載)

TOPへ     物故目次