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平成22年5月15日 校正すみ

山口 勝士君の死を悼む

佐藤 健三

広島市の中心地にある識町教会で去る5月7日山口勝士君の葬儀が執り行われた。ここは、彼が奥様と共に50数年前洗礼を受けられた由緒あるカテドラルで、西日本一の規模と格式で有名である。

荘重なパイプオルガンの伴奏に聖歌隊の賛美歌、多数の神父を従えた主任司祭の朗々たる祈りの中で、厳粛に葬儀ミサが進められた。

彼は復員後、肺結核のため、長期間の闘病生活を余儀なくされたが、右肺切除、その間に公認会計士、税理士の賢格をとり、今日の活躍の基礎を築いた。数々の要職を経て、平成5年には勲五等の栄誉を受けた。彼は寡黙にして温和、一号時代第6分隊伍長として、小生の第8分隊と寝室を同じくしていたが、彼の怒声は聞くことがなかった。また、身長が小生と同じの為、教室では常に隣り合わせで.その勉強ぶりをつぶさに観察することが出来たが、よく舟を漕いでいた小生とは対照的に常に端然として奇麗なノートをとっているのには感心した。物静かな彼と、ガラツ八の小生とは妙にウマが合ったのか、外出時には行動を共にすることが多かったが、ここ2,30年小生が大阪勤務時代は、来阪の都度小生を訪ねてくれた。一、二度有名なクラブに彼を案内して、袴姿の可愛い子ちゃん数名と舞台で、数々の軍歌を合唱し、終りには海軍経理学校校歌を良い気持ちで合唱したことが、昨日のごとく想い出される。

彼の希望で、去る平成10年11月、奈良の古寺巡りを行った。彼は半年前に軽度の脳梗塞を患ったのにかかわらず、極めて元気で、春日大社、東大寺、二月堂、三月堂、興福寺等小生の案内するままに、疲れも見せず実に熱心に、早朝から夕刻まで歩き回った。彼はまだ見足らぬ様子で、来春にはまた来るからと約束してくれた。

それからわずか2ケ月足らずの平成11年1月、脳梗塞が再発、救急救命センターに入院した。治療に専念した結果、杖歩行が出来るまでに回復し、昨年来自宅でリハビリに励んでいたが、運悪くこの3月転倒、骨折、又もや脳梗塞が重くなり、廿日市の大野病院に入院の止むなきに至った。この4月7日小生が見舞いに行った時は、言語発声が国難で、専ら点滴による栄養補給の状態であったが、顔色は良く、やせてもいず、昔変わらぬ容姿であった。また、ゆっくり奈良の古寺巡りをやろうなど彼の手を握った所、実に力強く握り返してくれた。その日からわずか1ケ月足らずの5月4日夜逝ってしまうとは、全く信じられない。

葬儀の終りに当たり、御長男浩之様(大阪市立大学文学部助教授・学術博士・東大卒)が父親に対する尊敬と愛情の溢れる御挨拶を述べられ、来会者一同深い感銘を受け、涙を拭う多くの人の姿が見受けられた。小生は声涙下る御挨拶に、万感陶に迫り不覚にも涙が止まらなかった。

(なにわ会ニュース85号13頁 平成13年9月掲載)

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