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平成22年5月11日 校正すみ

角田慶輝君への弔辞

小平 邦紀(70期)

謹んで故角田慶輝君のご霊前に申し上げます。

数日前、君の訃報を耳にした時、真っ先に私の脳裡に浮かんだのは 「どうしてそんなに早く逝ってしまったのか」という痛恨の思いでありました。

君は昭和19年8月、竣工直後の伊号第366潜水艦に、同期の吉本健太郎君の後任砲術長として神戸において着任しました。艦内では最も若く溌刺とした頼もしい青年士官でありました。この時から君との交友が始まり、生死を共にと誓い合って艦の指導・運営に当たることになりました。

伊366潜は完成後、8月下旬瀬戸内海に回航、出撃に備えて訓練に励み、準備整った12月初旬横須賀を出撃し、マリアナ列島パガン島への作戦輸送が初陣となりました。この作戦はパガン島へ食糧・医薬品等を揚陸し、帰りはサイパン島の攻撃で傷つき同島に不時着した飛行機搭乗員や、傷病兵数十名を収容し内地に還送する任務でありました。

次の作戦は昭和20年1月から3月にかけて行われ、先ずカロリン群島トラック島へ、敵の主要基地偵察に必要な飛行機彩雲の部品等を輸送し、更に補給が途絶えて飢えに苦しむメレヨン島へ80トンの糧食他を陸揚げし、帰路には43名の人員を収容して帰りました。

両作戦とも敵の制空権下に苦しい長時間潜航を余儀なくされ、特に帰路の傷病や栄養失調に苦しむ人達の輸送は酸鼻を極める困難なものでありましたが、乗組員一同の協力で無事任務を達成することが出来ました。

横須賀帰投後の3月初旬、私は転勤命令を受け、後事を君に託して退艦しました。

後を受けた君は航海長次いで水雷長に就任し、先任将校の重責をも兼ねることになったのであります。

この頃戦局はいよいよ切迫し、本来は輸送専用の潜水艦であった伊366潜も急遽改造され、人間魚雷回天を搭載し、真正面から敵の堅陣に立ち向かうことになりました。内海西部で回天戦の訓練に励み、8月1日回天特別攻撃隊多聞隊として出撃しました。同11日パラオ諸島北方500浬において敵の大船団に遭遇、成瀬謙治隊長以下回天3基を発進し攻撃を敢行しましたが、間もなく終戦となり、涙を呑んで内地に帰還しました。

今次大戦において、殆どの潜水艦が還らなかった中で、伊366潜が最後までその艦命を全うした陰には、君のひたむきな職務への貢献が少なくなかったものと考えられます。

さらに戦後君は海上自衛隊に奉職し、海上防衛の任務にその情熱を捧げたことも納得できることであります。

戦時中同じ潜水艦で生死をともにするという絆で結ばれた乗組員一同は、戦後も戦友会の鉄鯨会を発足し親交を深めて参りました。

君は遠く九州にあったため時たまの出席でありましたが、平成8年石和温泉での出席が最後となってしまいました。今年の3月の会合を案内した時のご返事には「体調を崩し、好きなゴルフも自粛して静養に努めている。子供達が京浜地区にいるので、近くそちらに移りたい」とのことでありました。君が近くに来られればお互いに逢う機会も増え、積もる話もはずむことと心待ちしておりましたのに、それがかなわぬ夢となってしまったのは誠に残念至極であります。

今日ここに、私よりも若い角田君のご霊前で、永遠のお別れを告げる席に立とうとは思いもよりませんでした。本当に落胆しております。今はただひたすら祖国防衛のために一身を捧げて、共に戦った青春を回想しながら、心からご冥福を祈るのみであります。さようなら、どうか安らかにお眠り下さい。

平成12年4月9日

伊号第366潜水艦鉄鯨会会長 海兵70期 小平邦紀

(注 編集部)

 なにわ会ニュース72号20〜27頁所載の角田慶輝君寄稿・伊号第366潜水艦戦記(その初陣から終局まで)を参照されたし 

(なにわ会ニュース83号5頁 平成12年9月掲載)

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