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平成22年5月11日 校正すみ

恒川愛二郎君への弔辞

飯野 伴七

一昨17日、元海軍戦闘機乗りで、戦後は、三菱事務機の社長を勤めた一人の男が天空高く飛び立って行った。その名は恒川愛二郎君、74才その人である。

君は東京都世田谷に生れ、東京府立一中から昭和15年12月海軍兵学校72期生として入校、翌年には開戦、休暇も中止して2年10ケ月の勉学と猛訓練を経て昭和18年9月卒業、緊急を告げる戦況の中、航空を熱望した君は、霞ケ浦に直行し練習機教程を経て念願の戦闘機専修の41期飛行学生となり、鹿島神宮近くの神池航空隊で実用機零戦の操縦、空戦の実技を演練し、同年7月30日卒業、クラス7名と共に、九州西岸の大村海軍航空隊に配属され赴任した。ここは実施部隊であると同時に練習生訓練も実施して居ったので、分隊士として教官配置にあると共に遊撃作戦を担う新進気鋭の青年士官であった。

九州地区には19年11月頃より支那奥地よりB-29の空襲があり、この遊撃戦に飛び上り、また、同期生の一人は鹿屋に進出して、沖縄周辺艦艇に特攻出撃すると言う大変苛烈な戦況となった。

20年に入り内地各地も敵艦載機やB-29の爆撃を受け、海軍航空隊の編制も目まぐるしく開隊又は改編されたが、名古屋近郊明治基地に零戦隊による210航空隊が編成され、防空特攻等敢行の隊となった。君はこの隊に6月1日大尉進級と共に転勤し、率先指揮官として遊撃戦に参加勇戦奮闘した。

8月15日終戦、苛烈な航空戦に生き抜いた君の前には、静寂と空虚に囲まれて次の人生計画に悩み乍ら内地航空隊の早期解隊復員の政策により解隊事務を了へ、20年10月末東京の我が家へと復員したのである。

復員後三菱商事に入社南米チリの外地勤務をして居る時は、髭を蓄えてクラス会に出席、この様にして居ないと子供扱いされて仕事にならないよと言って笑って居った。内外地勤務において、中堅社員として業績を挙げ、折しも三菱事務機立直しに要望されて移り、能くその任を果し、後同社社長に就任し、経営手腕を発揮して見事に隆盛の会社に築き上げた。当時コンピューター時代に入り時流に乗ったとはいえ、自らパソコンを操り、販売戦略の陣頚に立つ先達の心意気は、同世代、また、我がクラスの中でも一歩抜きん出た君の進取の気性から発した経営理念であった。

事務機を勇退後は、現地で培った得意のスペイン語に更に磨きをかけ、国際交流協会に、語学他でボランティア活動を続ける一方、静岡県三島にある日本大学のスペイン語講座を受け持って、週1回富士山麓まで出向いて講義をしていた。

君は長身色白で一本芯の通った顔も柔和な笑を絶やさず、柔軟な体の持主であり、江田島時代も水泳が得意で、三菱商事入社後は同社の水泳部に入り競泳に度々優勝し部員の指導に当り同好会の会長となって各地に水泳合宿旅行をして居った。つい最近迄1000米位は軽く泳げるよ、気分爽快健康に良いよと話して居った。

ゴルフもよくしたが、こちらは柔軟度が裏目に出て余り上手と言えなかったが、クラスのゴルフ会、零戦ゴルフ会には良く出席し持前の粘りを見せて居った。

リラックスの為、趣味と実益を兼ねて近くに住む湘南クラスの家庭を巡回して麻雀を楽しんで居った。実績の方は今聞く術も無い。

一方空への憧れ、零戦への愛着から全国零戦搭乗員会の会員となって、総会、ゴルフ会によく出席し、先輩後輩と交流した。そして40数年を経た平成の初期、同期の戦闘機専修生き残り者33名が集ろうとの計画が出るやその世話人の一人となり鎌倉で数回の会合を持ち発足させたが、その綿密な計画と数字の確実な把握に当時クラス会の会計を担当して居るのを承知の上で、こちらの会も会計を担当して貰った。

この会の第4回大会は昨年10月22〜3日、群馬県水上温泉で開催、足を傷めて居った君は夫人のエスコートのもと、夫婦で参加され大変満足そうで仲良く記念写真に収って居る。2日目は、谷川岳紅葉狩であったが之を断念いし、夫婦で帰途月夜野のガラス工場に立寄り好きで造詣深いガラス工芸品を観賞して帰宅した。

君の零戦に対する思い入れは人一倍強く、応接室にクラスの藤瀬画伯に特別依頼した大村田谷山上空を飛ぶ零戦一機の迫真の飛行姿勢で描かれた絵が掲げられて居る。その搭乗員は蒼空を駆け巡る君の英姿である。

零戦を愛し祖国の危急に際しては身を挺して戦い、戦後平和の時代には実業界の尖兵となって国際的にも力一杯活躍した恒川愛二郎君は逝った。いや自ら操縦する零戦に乗って白雲の流れる天空に昇ったのである。

願わくは蒼空に永久に飛んで、残った家族縁者クラス始め世界の平和を、天空高くより守ってくれ給え。帽振れ、永久に。

平成9年5月20日

海兵72期なにわ会 代表 飯野 伴七

(なにわ会ニュース77号5頁 平成9年9月掲載)

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