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平成22年5月11日 校正すみ

塚田 浩君を偲んで

押本 直正

父浩儀 病気療養中の処薬石効なく3月11日午後3時13分行年46才をもって永眠致しました。ここに生前のご厚誼を深謝し謹んでご通知申し上げます。

昭和43年3月12日

(住所 氏名  略)

3月16日、黒枠に囲まれたこの手紙を受取って、私は一瞬、はてなと思った。

「父浩」という言葉と「塚田 浩」とが結びつくのに多少の時間を要したからだ。

塚田君に最後にお会いしたのは、昨年4月17日松本出張の折だった。その前日、4月には珍しい雪が降り、中央線が山梨、長野に入るにつれて一面の銀世界、甲府盆地は桃の花盛りで、紅と白との対象が極めて印象的であった。

松本の宿舎から、早速、塚田君の会社へ電話した。「どうだ。今夜暇だったら一杯やらんか」という返事を期待してかけた電話は「専務は手術して、信州大学病院に入院中です」という全く意外な返答。翌日所用がすんでから、信州大学の病室に見舞う。病名は膀胱結石の摘出。予後良好。間もなく退院できる。病気の場所が場所だから家内に附添ってもらっている。小生の昨夜の宿舎が美原(うつくしがわら)のふもとだったと話したら、あそこは夏に来るとよい所だ。夏になったら家中揃って遊びに来いよ。案内するから・・・

約1時間もお邪魔しただろうか。帰りの汽車の時間もあるので、「さようなら元気でな」と握手すると、塚田君が一寸、涙ぐんだ。この涙ぐんだ顔が彼の最後で、何故その時、彼が涙ぐんだのか今にして思うと、何か不吉な予感があったのかも知れぬ。奥様が車を呼んで病院の出口まで送って下さった。病院の庭の桜の花と一尺近く積った雪が、対象的だったのを覚えている。

桜といえばその前年、江田島の銘牌竣工式の日(41.4.10)、それこそ満開の桜の下で彼に会った。バイパスニュース9号8頁に島田茂久君の塚田君を詠んだ俳句がある。

スプリング 帰る塚田の 痩せし肩

昔から彼は決して肥満体ではなかった。昭和18年秋、江田島を卒業して飛行学生として霞空に入隊した時、私は彼と同じ部屋に入った。学生舎の中央附近の部屋だった。同室は岩村敦夫、小林俊夫、塚田君と小生の4人だったと記憶する。部屋が同じということは、受持教官も同じで、93中練の初歩から教わった仲間ということである。このうち単独飛行の最も早かったのは塚田君であった。単独飛行が早く許されたということは、塚田君が最も操縦技術が上手だったということである。

塚田、小林両君は戦闘機乗りとして神池航空隊に、岩村君と小生は艦爆操縦員として百里空に分れたが、今塚田君を失って、かつての霞空のルームメイトはとうとう私一人になってしまった。その後塚田君と会ったのは20年の4月19日、厚木の302空の戦闘機隊指揮所であった。この日厚木雷電隊は、P―51邀撃に当った。私が用務飛行で霞空から厚木に着陸すると間もなく塚田君が邀撃から帰ってきた。(極めて不確かな記憶で申訳ないが、この日塚田君は陸軍の飛行場に不時着して少し遅れて帰隊したような気がする。)

「今頃93中練でふらふら飛んでいると危なぞ。今空襲があったばかりだ」とひやかされた記憶がある。福田 英君はその日の戦闘で、遂に帰って来なかった。その夜は塚田君、上野典夫君、大山裕正君などと福田 英君のお通夜をした。(余談であるが、その日の夕食は福田中尉と名札の置かれた食事を食べ、数日前に沖縄で戦死した片山市吾君のレインコートを借用して通夜に列した)

戦争中、塚田君に会う機会はもう一度あった筈であるが、確かに会ったかどうかはっきりしない。20年7月の末、北海道千歳で殉職した岩村叙夫君の遺骨を抱いて、厚木に着陸したが、その時302空の指揮所に電話して上野君の在否を確かめた処、隊長だという人から、「上野大尉は戦死した。貴様は何処から来たのか。もう72期は誰もおらんぞ」と怒鳴られて、割合のんびりしていた北海道からB29邀撃の第一線であった厚木基地のはりきった、しかも悲憤とも思われる気分を感じとった記憶はあるが、今となってはこの時塚田君と会ったかどうかを確かめる手段もなくなってしまった。

        

『江田島、霞浦、激しかった戦争、共に過した青春の日を思い浮べています。ご冥福をお祈りします。』

喪の通知を受取った翌日、私は奥様あてに弔電を打った。お葬式には間に会わなかったが、西口 譲君が3月17日クラスを代表し松本に赴いて弔意を表した。

行年46才 塚田君は逝った。

激しかった戦争を生きぬいて、これからという時に塚田君はこの世を去った。

長男守君 15歳、中学3年

(なにわ会ニュース14号13頁 昭和43年5月掲載)

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