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平成22年5月10日 校正すみ

田中 春雄君弔辞

左近允尚敏

ここに故田中春雄君の葬儀にあたり、海軍兵学校第72期生一同に代わって、謹んで御霊前に追悼の辞を捧げます。

君は今を去ること55余年前の昭和15年12月、東京府立第3中学校から海軍兵学校に進まれました。 太平洋戦争が勃発したのはその1年後であります。江田島における3年足らずの生徒生活を終え、昭和18年9月に卒業、海軍少尉候補生に任ぜられ、君は戦艦山城、私は戦艦伊勢で乗艦実習の後、11月に横須賀から、空母翔鶴に便乗して中部太平洋のトラック島に赴き、君は重巡洋艦4隻から成る第7戦隊の4番艦、利根に、私は同戦隊の1番艦、熊野に乗り組みました。

生徒時代はあまり面識のなかった2人でしたが、以後各地を転戦する間にしばしば顔を合わす機会があり、親しくなったのであります。

昭和19年2、3月ごろ、利根は3番艦筑摩と共に一時、南西方面艦隊に派遣され、インド洋における通商破壊作戦に従事しましたが、その際に生起したビハール号事件のために、戦後しばらくの間、君や大塚 淳君が非常な苦労を重ねられた様子を後でうかがったことがあります。

君はその後潜水艦に進まれ、私は水上艦勤務を続けて、昭和20年6月には海軍大尉に任ぜられましたが、戦い利あらず、8月には終戦の巳むなきに至りました。この間に同期生625名の54パーセントにあたる335名を失ったことは痛恨の極みであります。

君と私がいっそう親しくなったのは、昭和20年代の後半から共に海上自衛隊で勤務した20数年を通じてであります。特に昭和48年から49年にかけて、われわれの第2の故郷とも言うべき江田島で共に楽しく勤務いたしました。足立之義君や池田誠七君も一緒でした。

それから2年ほどたった昭和51年春、私が北南米遠洋航海を前にして練習艦隊で大阪に入港した際、君は大阪神戸方面部隊指揮官たるアドミラルとして入港中の行事一切を見事に取りし切って下さいました。 君が音頭をとられ、阪神地区在住のクラスメイト諸兄が夫人同伴で来艦され、また市内で歓迎、壮行の宴を張って頂いたことを今も鮮明に思い出します。

君は明朗にして闊達(かったつ)、ネービーオフィサーらしいネービーオフィサーであり、私とは話も酒もよく合いました。意気投合という言葉がありますが、そのとおりだったと思います。海上自衛隊のあとはそれぞれ第3の人生に入りましたが、クラス会、クラス旅行をはじめ、海軍の集りではよく顔を合わせました会場で視線が会えば歩み寄って話を交わし宴席であれば隣に坐って酒をくみ交わしたいというクラスメイトを誰もが何人か持っていると思いますが、君は私にとってまさしくそのクラスメイトであり、君と歓談できたことでその会合に参加してよかったという感を一段と深くしたものです。おそらくはクラスメイトの多くも私と同じ気持ちであったでしょう。

君は舞鶴の地における軍艦利根、筑摩の碑の建立、あるいは東郷神社の社屋の改築などに大いに尽力されました。帝国海軍青年士官としての生死紙一重の奮戦、海上自衛隊幹部としてのわが国海上防衛への多大の御功績に加え、その後も戦死者の慰霊と海軍の良き伝統の保持に尽くされましたことに対し、改めて深甚の敬意を表します。

君は先年体調を崩されましたが、間もなく回復され、(かも)し出す雰囲気も酒量も以前と変わらず、私も心から喜んでいた一人でした

昨年来、病篤しと、灰聞して心を痛めながら、お見舞いすべきかどうか迷ううちに君の計報に接しました。深い悲しみと淋しさを禁じ得ません。私たちはこれからいくたびか、「田中春雄か、良い男だったなあ」と頷き(うなずき)合うことでしょう

五十数年に及ぶ生前の御厚誼を深謝しますと共に、心から哀悼の意を表させて頂きます

田中春雄君、どうか安らかにお眠り下さい。

平成8年3月17日

左近允尚敏

(なにわ会ニュース75号3頁 平成8年9月掲載)

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