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平成22年5月10日 校正すみ

副官 田中歳春中尉の思い出

小森宮正悳

 人生、ゆくりなくもめぐり逢って、生涯忘れられないという人が、間々いるものだ。ここでお話する「田中副官」も、私にとっては、いみじくもそのような人の一人であった。

私が、初めて田中副官に出会ったのは、今を去ること、もう48年も昔、昭和20年3月11日の深夜11時過ぎ。場所は、本州最南端の鹿児島から南へ3千キロも離れたカロリン群島・メレヨン(現オレアイ)環礁の中のフララップ島の浜辺であった。その日は私にとって、この上なく悲痛、かつ、際どい出来事に埋め尽された一日であった。

その日の朝、0900(午前9時)私(当時24才、慶大卒、13期飛行予備学生出身の海軍少尉)は二式大艇と呼ばれていた大型飛行艇の機長として、11名のペア(海軍用語で同乗クルー)とともに、鹿児島湾内鴨池基地を発進。同時刻に、鹿屋基地を離陸した『銀河(Y-20)』24機の「梓(あづさ)神風特攻隊』と佐多岬上空で編隊を組んで、一路3千キロ南のカロリン群島、ヤップ島めざして、同特攻隊の針路誘導を開始した。

その頃、カロリン群島のウルシー環礁は南太平洋における、米海軍機動部隊最大の集結用泊地で、日本本土空襲、更には、本土侵攻作戦の根拠地化しつつあり、日本海軍にとっては、最大の頭痛のタネになっていた。そこで、これを一挙に撃滅するための『菊水作戦第二次丹作戦』なる特攻作戦が計画された。

それは、双発、三座(三人乗り)8百キロの魚雷か又は5百キロの爆弾2個が搭載でき、最高時速546キロで、航続距離は5千キロ以上という性能を持つ、当時の海軍としては取って置きの「虎の仔」ともいうべき新鋭高速爆撃機『銀河』24機で、ウルシー泊地に特攻をかけようという作戦であった。しかし、銀河は鹿屋―ウルシー間約6千キロの往復はできない。結局「片道の殴り込み特攻」ということになるわけだが、そのためには、途中の針路上の気象偵察を含めて、どうしても脚の長い『針路誘導機」が必要になる。そこで、航続距離が7千キロ以上もある二式太艇に、声がかかることになったわけであった。しかし。大艇の巡航時速は、せいぜい3百キロぐらいだから、銀河隊は自機のスピードを半分近くまで落さないと編隊飛行はできない。これはウルシーに向って、ただひたすら敵艦に体当たりするための、死ぬためにのみ飛んで行く、銀河特攻隊員達にとっては、耐えがたいまでに、辛く、苦しい作業たったのではないかと思われた。

ところで、当初、特攻隊誘導を命じられたとき、針路誘導が終れば、当然、我々も銀河隊と一緒に敵艦に突っ込むものだと思っていたところ、大艇隊には、誘導終了後は『万難を排して、帰投せよ』という命令か出ていた。

 大艇のように数の少ない、しかも、抜群に長い航続距離を持つ特殊な飛行機とその搭乗員を、むざむざ消耗することは不利だという議論が司令部参謀の間で出てきたというのが、その理由のようであった。

しかし、このことは、大艇の搭乗員にとっては、逆に非常な精神的苦痛に満ちた心の重荷になっていた。先ずは誘導すべき特攻隊員達に対する『申し訳ない』という気持。その上、特攻の目標地というのは、常時厳重この上ない敵のレーダー網、迎撃戦闘機群、対空砲火陣地等に守られていて、およそ生還の可能性は、99パーセントあり得ないというのが常識であった。しかし、わが大艇隊は、メレヨン島、トラック島への不時着も可。救助用潜水艦も、この海域に配置してあるという。しかも、誘導機の搭乗員にも、もし生還して来なかった場合は、特攻隊員と同様、「二階級特進」という「恩典」なるものが用意されていた。

さて、この特攻隊誘導飛行中には、いろいろとハラハラすることが起り続けた。ヤップ島上空到達直前、突然海面に姿を現したのは、一瞬、中サイズの敵機動部隊かと思ったほどの艦船群。よく見ると、巡洋艦、駆逐艦に護衛された敵の大型タンカー船団であった。それでも銀河隊の存在に気づかれると、不意打ちの特攻は不可能になる。急いで銀河隊に雲中退避を連絡、我が大艇も雲の中に隠れて敵タンカー群から離れることができた。更にその後、かなり大型のスコールにぶつかり、これを突破するのは、また一苦労であった。

 しかし、スコールを抜けた途端、目の前に鮮やかな三角形のヤップ島が姿を現した。そこで、銀河隊はたちまちスロットル一杯、ブースト全開で、本来の快速を取り戻し.別れのバンクを繰り返しつつ、迫り来る紫色の夕暮れの中を一路ウルシー方向に飛び去って行った。鹿屋発進後、実に十時間近くに及ぶ、誘導機の我が大艇との速度調整、悪天候、雲中退避などに耐えながら、いま一目散にウルシーの敵艦船に体当りするため、小さな風防(窓)越しに飛行手袋のまま思い切り手を振って飛び去って行く彼らの姿――私たち誘導機大艇のクルーは、ただ涙を噛みしめながら、彼らの後ろ姿に無言の敬礼を送った。

 

こうして、命令されていた辛い任務を一応果した後「万難を排して、帰投せよ」との命令に従い、先ずは、トラック島に向った。すでに日没も過ぎて、夜間飛行になっていた。ところが、突然、四基のエンジンの内の一番発動機(右内側)のシリンダーが爆発、プロペラは先端が曲り、つんのめったような型で今にも軸から外れそうで止ってしまった。

先先刻、敵のタンカー船団に遭遇、急遽退避した時、かなり長時間にわたってエンジンをフルに吹かし続けたのが祟ったのか? それとも、海上での出発前の整備に欠陥があったのか?風圧でプロペラが飛んで機体や尾翼にぶつかれば墜落しかない。腫物に触るように、このプロペラが飛散しないことを祈りながら、残り三基のエンジンで、出来るだけおとなしく、トラック島の甚地まで飛ぶことにした。しかし、飛行艇は水平を保つのが精一杯。徐々に高度を失いつつあった。この情況では、とてもトラック基地までたどりつくのは難しいと、判断せざるを得ない。その上、搭乗整備員から「燃料の残量あと約二時間分」という報告があったので、目的地を途中のメレヨン島に変更した。

遂にメレヨン島上空に辿りつくことができた。月光が反射する海面に、白波に囲まれた、夜目にも美しい珊瑚礁であった。だが、初めての海域での夜間着水は.大艇には非常に難しいことで、それに加えて三発の片肺飛行ではなおのことだ。全員極度に緊張して、燃料を気にしながら、島の上空を何回も旋回した。

月明かりと、島の海岸の一端と覚しきところにポッンとかすかなかがり火のような火が見えた。それを目印に、大艇は見事ラグーン(礁湖)の一角に至難の着水を無事果した。

行き足が止まったので、岸辺に向って、「オーイ・メレヨンかぁ」と叫んだところ、「オーイ・・・」 と日本語が返って来たので、まず、日本軍のいる島で、捕虜の心配は消え安堵した。カンテラを点じた小舟が一艘、我が大艇に漕ぎ寄せてきた。乗っていたのは、上半身裸の海軍兵士だったが、頬は痩せて尖り、胸には肋骨が見事に浮き上がっていた。

「ここは何処だ」 と、念のため聞くと「メレヨン島です。でも食糧のない地獄島です」という思いがけない返答が返って来た。やがて岸辺に若くて、背の高いハンサムな、しかし、これまた痩せて頬の尖った若い中尉が現れ、「司令が指揮所でお待ちです。」と海岸近くにあったテント張りの「指揮所」なる所へ案内してくれた。そこには、我が機の爆音が時ならぬ「総員起し」になってしまったのか、防暑服の半ズボン姿や上半身裸の兵員や士官達が眠そうな顔で集り、毛皮の衿の着いた飛行服姿の我々をまるで、異星人を見るような驚嘆の眼で見つめていた。

この島に駐屯していた、海軍第44警備隊の司令、宮田嘉信大佐は、頬はこけているが、かがり火に照らされた顔は日焼けして、精悍さを残していた。われわれの不時着に至るまでの報告を、ゆったりした態度で「ほう、ほう・」と耳を傾けてくれたが、肝心の「梓特攻銀河隊ウルシー突入」のことやわれわれを救出する潜水艦のことなどについては、何ら事前の連絡もなく.全くご存じなかったらしく、まことに痛まし気な表情をされた。

こうして こちらにとっても全く思いがけないこの島への不時着報告をする、私の引きつった顔や、極度の緊張からまだ覚めやらぬクルーのぎこちない動作を、司令の横で、ジーと見つめていたのが、先刻、岸辺まで迎えに来てくれた中尉で、それが田中副官だったのである。彼はその夜の宿舎を世話してくれた。宿舎といっても、土砂をつめたドラム缶で囲って、その上に屋根がわりにトタン板を置き、砂をかぶせただけのいわば防空壕。沃木兵曹長と同宿だったが、一度にドッと疲れが出て、寝床は固いパネルだったのに、すぐ前後不覚で眠ってしまった。

翌朝、宮田司令から誠に厳しい命令が下った。私たちの大艇を「即刻、海中に沈めよ」という命令であった。確かに、この島には補給すべきガソリンは全くなく、爆発したエンジンを修理するための部品も器具もなく、専門の整備員もいない。おまけに全幅38メートル、全長28メートルというバカでかい機体を、簡単にどこかに隠すということも難しい。これを見つければ、米軍は必ず新しい爆撃目標として大編隊で来るに違いないから、君達には気の毒だが・・・というのが、まことにもつとも至極な司令の意見であった。この命令を気の毒そうに私達に伝えたのも田中副官であった。長い間、私たちを乗せて飛んでくれた愛機――この大艇には、すでに血の通っている仲間同様の深い愛着があり、沈めてしまうことには断腸の想いを感じざるを得なかった。これは、他の11人のクルーにとっても全く同様だったと思う。しかし、止むを得なかった。海岸から200米ほど離れたラグーンに浮いていた大艇を岸辺から、愛機からおろした機銃で撃った。やっと燃え出した大艇は「いやだ、いやだ」と水没を拒否するかのように身悶えして、なかなか沈んでくれなかったが、とうとう最後に、クルー全員が挙手の敬礼で見守る中をゆっくり入江 の波間に沈んで行った。

さて、前記のように、指揮所というのは、ただのテント張りで、司令の椅子だけがケンパス張りで、折りたたみのデッキチェアー。その前に大きな木製の机と、反対側に粗末な木のベンチがあるだけだった。

敵機が上空に現れたり、空襲警報が出たりすると、机も椅子もそのままにして、テントの支柱を外して机や椅子の上にかぶせ、人間は近くの防空壕に逃げ込み、敵機の通過をジッと待っているというのが、まるで日課のようになっていた。

この島はすでに味方から見捨てられていただけでなく、敵サン側からも見捨てられたように、孤立していた。すでに1年以上、食糧の補給の途は絶えて、陸海軍それぞれ約2千名の将兵が、悲惨極まる飢餓地獄の生活を余儀なくされている一方、敵は爆撃しても、爆弾がもったいないとでも思っているのか、1機か2機で 3日に1回ぐらい空爆と偵察を兼ねてやって来ては、爆弾を2、3発落としていった。

約1年前の19年4月、部隊がこの島に上陸したとき、海岸には、向う3年間分の食料を主とする物資が、山のように積み上げられていたそうだが、それらが安全な貯蔵場所に分散・収納される前に、200機を越える敵機が来襲、その集中爆撃で、ヤシのように、食用になる植物類は勿論のこと、糧秣はほぼ全部焼失し、歯磨き粉などのように、およそ「喰えないものばかり」が焼け残つたという皮肉な話であった。それから島では、食糧のない、飢餓地獄が続くようになったわけである。焼け残った米の一人1日当りの配分量は、せいぜいおチョコ一杯の20グラムぐらいという侘しさ。陸軍も海軍も兵士たちは栄養失調で、ばたばた倒れて行くようになったというのである。

食糧のストックはなくても、農耕作業がうまく運べば、飢えなくても済む程度の作物は出来るはずである。その点、残念なことにメレヨン環礁の島々の地味は最低そのもの、どの島も珊瑚礁で出来た「海抜」僅か3米で、どこにいても海が見える小さな土地は、ちょっと土を耕そうとすると、忽ちアメーバー赤痢菌を含んだ真水が出て来る。陸軍も海軍も戦闘訓練等よりも農耕作業に力を入れていたのだが、たとえばサツマ芋、ジャガ芋を作っても、せいぜい鶏の卵程度の大きさのものが、ごく僅か収穫できるだけ。従って、芋は大変な貴重品になっていた。

食事はいつも雑炊であった。アルミの食器を覗き込むと、鏡のように先ず自分の顔が写る。ということは、殆どが汁ばかりだということである。その汁の中に、雑草の葉っぱ、木の芽、花弁、およそ喉元を通りそうなものなら何でもぶち込まれている。魚類は漁具がないためほとんど()れない。蛋白源の陸上動物は、哺乳も爬虫顆も甲殻もほとんどが漁り尽くされて、事実上絶滅状態だという。′.

不時着してしばらくは、この島の食事が全く咽喉を通らなくて困った我々であったが、飢餓(きが)に堕ちて、絶えず飢えに悩まされる立派な亡者になり下がってしまうのに、大した時間はからなかったは潜水艦が食糧補給に来て救出されるまで、結局、58日間、この島にお世話になったが、そ間、司令との陪食で、「世の中には、こんなにも旨いものが、まだったのか・・まことに感に堪えない思いをしたことが、2回あった。それは2回とも、「ネズミ」の肉であった。そのネズミも、の島ではもうほとんど捕り尽くされてしまっていて、滅多に見つからないという超貴重品になていた(今でも、何か抜群に旨いものにぶつかると、思わずメレヨンのネズミを思い出してしまう習性が残ってしまったの悲しい。)

このように、食糧の乏しい島の生活の中へ、文字通り天から降って湧いたように割り込んできた、我々太艇搭乗員は、全く、招かれざる客「迷惑千万な穀潰し」以外の何ものでもなかった。それにも拘らず、この島駐屯の海軍の第44警備隊、第216設営隊、そして、陸軍の北村勝三少将を長とする独立混成第5旅団の将兵の皆さんには、筆舌に尽し難いほど悲惨困難な環境の中で、実に心温かいお世話になってしまった。今もって、なんとお礼申し上げてよいのか、言葉もないほど、熱い感謝の念が続いている。中でも最も深く心に残って忘れられないのは、陰に陽に私達――この島にとっては全くの「飛び入りの厄介者」に過ぎなかった12名の大艇搭乗員に対して、この上なく細やかに面倒を見てくれた副官・田中歳春中尉の暖かい心くばりの数々であった。

しかし、実をいうと、私は最初、副官が海軍兵学校72期出身であることを知ったとき、副官と親しくなることを、警成し、ためらった。というのは、予備学生出身のものは、特に私は娑婆っ気(海軍では一般社会のことを娑婆といった)が抜けきれてなかったので、海兵71 2期出の士官には時々いびられた嫌な思い出があったからである。ところが、この田中副官は、全くそのような人ではないことが徐々に解って来た。彼には善意と暖かさがあった。親しくなって内地の話などするうちに、彼が鳥取県倉吉市の生れで、県立倉吉中学(旧制)から海兵に入学したことなど話してくれた。また、この島の食糧事情を心配する彼は、食糧補給と我々の救助を兼ねて来る筈になっていると、私が不時着報告の中で司令に述べた潜水艦が、何時来るのだろうかと気にしていた。

この環礁では小さな島や珊瑚礁が十数ヶ所も散らばっていたが、その内の7ヶ所に海軍の各分隊が散らばって配置されていた。各隊からは毎日、このテント張りの本部指揮所に報告が届くが、その主なものは、死亡者の報告である。「○分隊○○名、衝心脚気で死亡」というような報告が、日によっては20人くらいもあった。皆、栄養失調つまり餓死者である。司令、副官、居合わせた士官が起立してその報告を聞く。その時の、司令と副官の悲痛な顔の表情が、今でも眼底に焼き付いて残っている。報告が終ると、煙草好きの司令は、煙草に火をつけて深く吸い込む。食糧の補給さえない島で、煙草の配給などあるはずがない。司令といえども煙草は大変な貴重品で、カビで茶褐色に変色した巻煙草を、大切そうに私物入れから取り出して吸っておられた。数服――三分の二ぐらい吸って、灰皿で火をもみ消し、吸殻をテントの外の、衛兵の立っている方向にポイと投げる。その時、決って、田中副官は、クルリとその方向に背を向ける。テントの外では、衛兵が素早く、そのすい殻を拾ってポケットに入れる。始めのうち、うかつな私はこの一連の仕草が何のことかわからなかった。数日後、鈍感な私もハッと気がついた。ニコチンに飢えた兵隊にすい殻を拾いやすくするための田中副官の「思いやり」であることがわかったからだ。当時、田中副官が煙草を吸っていたかどうか、今になるとどうしても思い出せない。これを書くに当って、未亡人に電話したところ、「主人は、煙草も酒もやりませんでした」それなのに肺がんで・・」と絶句された。私は返答に困ると同時に、眼頭が熱くなり、涙声で電話をきった。

私自身は学生時代も、入隊以後も煙草は吸わなかったが、この島で初めて代用煙草で煙を吸うことを覚えたのであった。この島で会った予備学生同期の仲間から教えられ、貰ったコンサイス英和辞典のラィスペーパーの一頁を破いて、カビ臭い紅茶の葉やえたいの知れないほし草を巻いて、煙草の代用として、おかしな煙を吸っていた。これが病みつきで、私の喫煙癖は、ついに20年近く、昭和42年まで続いてしまった。

もう一つ、田中副官の「思いやり」があった。それは私個人に対してのものであったから、思い出は一層強列に残っている。

メレヨン島で、私は毎日、日記をつけていたが、鉛筆はあるのだが、紙がなくなってしまった。そこで、田中副官にふと、紙をねだった。彼は一瞬、困ったような顔をしたが、「分った」といって、翌日いくばくかの紙を渡してくれた。それは『海軍』と赤色で印刷され、赤罫の入った公文書用の紙。それを半裁したものであった。私はハッとした。そして彼の好意に甘えて気軽に頼んだことが悔やまれた。紙は食糧に次ぐ貴重品だったのである。この貴重な紙に、私はできるだけ細かい字で、メレヨンの毎日を日記に書き込んだ。そして、不時着から58日目に、この島へ食糧補給にやってきた、伊号369潜水艦に便乗して、我々12人の大艇搭乗員は、運よく、敗戦直前の故国に還って来ることができた。本隊の四国詫間基地に還って間もなく、私のペアは新しい二式大艇とともに、穴道湖の基地から、能登半島七尾湾の基地に派遣された。ここで無条件降伏のニュースを聞いた。

託間基地に帰ってきたとき、大艇揚陸用ランプ(傾斜路)の横の広場では、おびただしい量の書類が、飛行機、軍服とともに、大きな焚火に投げ込まれて燃え盛っていた。大切この上ない物として、託間基地の士官室に残して置いた、私のメレ∃ン日記などの記録は、飛行記録など米軍に見つかるとやばいと考えられていた重要書類とともに、この火にくべられ、完全に燃えつきていたのである。

米軍が日本に上陸すれば、四国、九州にいた士官搭乗員は皆殺しにされるというデマが飛びかつていた。

田中副官は、昭和20年9月、第1回の引揚げ船氷川丸で、メレヨン島から九州別府港へ引き揚げて来られた。その後、大阪の「帝人」に就職し、茨木市に住んでおられた。一度、ぜひお会いして、あの時のお礼を申し上げたいと思いつつ、果たせぬうちに、昨年(平成4年)8月17日、68歳の生涯を閉じられた。誠に残念であった。

私も遠からず、黄泉(よみ)の国へ行くわけであるが、そこで田中副官に再会したとき、改めて当時のお礼を述べ、私の数々の不明の許しを乞いたいと思っている。

(1993年8月16日)   

(なにわ会ニュース70号16頁 平成6年3月掲載)

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