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主人を偲んで

加藤 好子 

人の別れ、誰しも通る道だとは常々思ってぉりましたが、本当に悲しくて辛いものでございますネ・・・。主人は昨年十月七日、七拾七歳にて、大淵先生に看とられながら静かに去って行きました。その日先生は出張先から夜遅く帰宅されたばかりでした。お疲れになっていらっしゃると思うと、主人の容体をお伝えする事が心苦しく、電話口まで行ったり来たり。でも「今の主人は、誰よりも暖かく接してくださった先生を待っているのでは・・・・」と思いますと、たまらなくなり電話に飛び付きました。すぐに車で駆けつけて来て下さいました先生に手をとられ、安心したのでしようか、主人は二十五分後静かに目を閉じました。主人の最後を色々な方々に暖かい愛を頂き、そして、また、感謝の気持ちを無言で伝えながら去って行く姿、その様子が今でも目に焼き付いております。これからの人生、一人歩きの私にとりましては、大きな、大きな主人からのプレゼントでございました。

七年前他界されました主人のお友達は脳梗塞で入院中、体が思うように動かず、イライラとした怒りの気持ちを奥様に当たっておられたそうです。お見舞いに伺った主人は何時も「彼もつらいだろうが、奥さんも気の毒だよ・・・・」と心配しておりました。そんなある日、大きな鏡を抱えてお見舞いに伺ったそうです。「オイ!!前しか見えないから奥さんばかり目に入って文句ばかり言っているが、この鏡を見ると、後ろの風景もよく見えていいんだヨ・・・・」と言いながら渡したとの事。「その後、いくらか穏やかになりました。嬉しかったです」と言いながら主人亡き後、奥様から伺いました。

 人間は肉体的にだんだん衰弱しても、精神的な面では最後まで成長出来る可能性を秘めているものなのですネ・・・。

ぐちを言わず何時もユーモアで人を笑わせたり、暖かく人に接しておりました主人。あの大きな笑い声の中には色々な思いがあり、時には自身のストレス解消もしていたのではないかと、気付くことが出来なかった私。たまらなく胸を痛めております。最後まで自分自身の悲しみを処理するのに精一杯で主人の気持にまでなかなか配慮出来なかつたが、時折襲って来るむなしさの中で、申し訳なかつた思いとなってこみあげて参ります。生きて来た人生を振り返ってみますと、いかに多くの方々との出会いを通じて自分が形成されて来ていたのか。さらには、また、見えない真実を感じとる難しさなど、つくづく考えさせられます。

 今では主人と二人で語りあえる場所がやつと見つかりました。悲しい、嬉しい、面白かつた色々な思いを、忙しくペンを走らせながら語りかけております。その一時が、私の一番幸せな時間なのです。『孤独は外にしか向いていなかった眼を自分に向けられるので、もう一人の自分が発見出来てとても面白いよ・・・・・』と主人の声がどこからか聞こえてくるようです。新しい気付きを楽しみにしています。

人は二度生きる事が出来ると申しますが、一度は現世で、もう一つは人の心の中で生きるとか。今、主人は私の心の中で生さいる事でしよう。安らかに生きていかれる事を念じております。

(平成十二年三月)

 

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