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平成22年5月8日 校正すみ

白根 行男の思い出

大谷 友之


昭和30年代の初め、北九州の三菱化成黒崎工場に来訪された来客の中に、包装材料の権威者として「白根教授」と呼ばれて、信輯され、尊敬されていた人物がいた。直接の取引先ではないが、肥料袋等に使用されていたターボリン紙加工メーカーの常務取締役であった白根行男のことである。

(ターボリン紙とはクラフト紙とクラフト紙の間にコールタールを塗布してサンドウィッチした防湿紙のことである.)

戦後復興の最重点目標の一つが食糧増産であったが、その為には肥料の増産が急務であった。

当時、化学肥料の主力はかます入りの硫安から肥効が高く、使用に手間が省ける化成肥料へ、更に各種の高度化成へと次第に転換されていた中で、吸湿性のある化成肥料の包装の為、防湿性に秀でていて安価な肥料袋の需要が急増していた。

その頃は、プラスチック袋は未だ実用化されておらず、肥料メーカー各社は防湿性に信頼度の高い肥料袋の開発に腐心していたが、信用のおける防湿材料はターボリン紙に勝るものはないとされていた。

このターポリン紙や重包装紙についての第一人者として、適確な説明が出来て、行き届いたアドバイスが出来る人が白根教授であったのである。

 

白根教授の信奉者は多く、当時社内規則では指名競争入札が資材購入の大原則であったにもかかわらず、肥料袋の用紙については、白根教授の説得力のあるアドバイスどおり、クラフト紙は品質に斑(むら)のない北日本製紙のものを、ターボリン紙は三国紙工で加工したものに決められ、結果として、三国紙工の独占となっていたのである“

今では、食糧増産優先の農業はすっかり影を潜め、無農薬、有機肥料の時代となり、食糧も輸入依存の時代となっている。 そして、肥料製造業は完全な斜陽産業となり、かつては包装材料の花形であった北日本製紙・三国紙工の名前も過去の思い出の中に埋没してしまっている。これが時代というものだろうか。今昔の感に堪えない

古いことなので、あるいは多少の記憶違いがあるかも知れないが、東京オリンピックよりも前のことであったと思う「5月の連休中、白根は酷い腸捻転を起こして生死の境をさまよったことがある.在阪の医者が学会出席のため、不在という不運も重なり、近隣の期友が固唾を呑んで見守る中、辛うじて、一命を取り止めて生還したが、爾後人工肛門のお世話になるという不便な生活を余儀なくされていた。

白根はこのハンディーを滅多に口にすることはなく、常人と同様の顔をして、クラスの諸行事に加わっていた、

晩年になってから明かして呉れたことだが、行事に出席する為には、数日前から食事その他のコントロールに入り、当日は朝早く起床して、身体の手入れを入念に行ってから出発するということであったという。

白根のクラス会への貢献は、多くの期友の認め、感謝しているところである。

昭和44年には  の卒業記念アルバムを見事複製、複刊して呉れた これは白根以外の者では実現不可能な放れ業であった。

絶家となり、無縁墓として処分寸前であった今井義幸の墓を探し出して、鄭重な供養をして呉れたのも白根であった。

クラス会の諸行事には必ず出席して、目立たない所で気を配り、行事が円滑に行われるように縁の下の力持ちの役目をやって呉れていたのも白根であったが、筋を通して、決して妥協することは無かった。

なにわ会ニュースには、時々所見を発表しているので、期友諸兄はご承知のことと思うが、やや難解な論調で戦争に対する反省は激しく、人一倍潔癖で、自分に嘘をつけない性格の為もあって、誤解を招いていることがあるかも知れない。意見は徹底しており、突き詰めて追及する態度は一生変らなかったように思う。

晩年の生活は必ずしも、平安、平穏であったとは思えない 五年前弥栄子夫人を癌で失ったが、その看病への専心振りはとても真似出来るものではなかった。最後は聖ヨハネ桜町病院のホスピスで暖かく見送り、カトリック小金井教会で告別式を行った。

これを期として白根の生活、心情には大きな変化があったのだと思う。自らの身体障害に加え、一人暮らしの味気なさは遂に癌の跳梁を許したのではないだろうか。

白根を見舞って呉れた畑種治郎や山田 穣の話を聞き、彼の不幸、不憫に同情しながら、何の手助けも出来なかった己の無力さや不行き届きを恥じている。

告別式の行われたカトリック小金井教会で、白根とは信者仲間であり、私のサラリーマン時代の先輩であった佐藤敏登さんのお話では、昇天の一週間前、夫人と同様病床で洗礼を受けてヨハネ白根行男となり、安らかにあの世に逝ったとのことである、

佐藤さんは白根とは教会の行事を通じておつきあいがあったようだが、「白根さんは己に嘘のつけない真面目な人でしたね。」 と話したおられるが、そのとおりだと思う。

白根は親しい仲の友人に対してであっても納得出来ないことには、決して付和雷同することは無かった。これが頑固だと誤解を受けた因であったかも知れない。

戦後、井上成美校長讃美(賛美)の声が大勢を占めるようになってからも、断固異議を唱えたのが白根であった。〉

今次の大戦が何であったのか。その根源にさかのぼって思考を重ね、真の責任者は誰であったのかを追及し反省していたのが白根であったと思う。

白根の葬儀はカトリック小金井教会で執行された。告別式の日は朝まで風雨が吹き荒れていたが、告別式開始の頃には見違えるような晴天になった。遺体は白根の生前の強い希望通り、東京医大に献体された。

(なにわ会ニュース88号11頁 平成15年3月掲載)

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