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平成22年5月8日 校正すみ

品川を偲ぶ会

編集部

品川の35日を兼ねて、親しかったクラスだけで思い出を語っていただきたいというご家族の申し出があり、その会合が7月29日の夜、横浜市金沢区の品川家で催された。

品川の遺骨の前には遺影が飾られ、品川の47年頃の作品である葛飾北斉富嶽三十六景「神奈川沖の浪裏」の模写屏風(約三畳の大きき)が立てられていた。

品川のお兄さんの挨拶のあと、加藤孝二の合図で黙藤1分、つづいて参会者から3分間ずつ思い出を語ってもらった。

以下はその要約である。(文責 押本)

 

大谷 友之 

入校した時、5部17分隊で一緒だった。四号で生残っているのは、赤尾、副島(現小野)、大熊、竹村、谷口、十時、松崎と俺、川久保、権代、末岡、中島が戦死、ほかに73期で卒業した星野(戦後病没)と14名だった。倶楽部は鷲部の真下クラブ。落着いていて兄貴のような感じのする男だった反面、心配性でセッカチの面もあったのは生来が几帳面だったからだろう。伍長からも可愛いがられていた。戦後小野(旧姓副島)が上京するたびにホテルの世話などの面倒を見てくれていた。

 

加藤 孝二 

二号の時50分隊で一緒。鬼山隆三、桑原、坂元拓運、樋口幹と、俺が生残り、小原、片山、杉山、多田、福岡が戦死し、戦後畠山が亡くなった。くわしくは追憶記の中に書いたので読んで欲しい。

 

浦本  

四号の時となりの5分隊にいた。入校前の真下クラブで角ぼったような丸ぼったいような藤岡中学の帽子をかぶっていたのを覚えている。卒業前56分隊一号で係の服装をして写した写真が毎日グラフ特集号にのっているが、品川は褌一本の水泳係で裸体美を誇示している。もっともお嬢さんの恭子さんはこの写真をみて幻滅を感じ、会社の女子職員からも大分ひやかされたらしいが。下級生を殴るということは全くしなかった。家を建てる時の保証人になってもらって、まだ、その返済が終っていないので、引き続いて長男の智(さとし)君に相続をお願いしようと思っている。

 

木村 貞春

俺の本籍はいまだ群馬県にある。生まれも育ちも横浜で群馬県のことは余り知らないが、兵学校時代群馬県人会に出席していたので品川と一緒になった。(この時容子夫人から声あり、「群馬県のどこですか」偶然夫人と同県同村ということが判明)京浜急行と横浜銀行ということで仕事の上でもなにがしかの関係もあったが、お兄さんの子供さんが横浜銀行に入社したこともあって親しくしていました。

 

猿田 松男

江田島でのでき事。表桟橋で品川夫人が品川に「これから何処へ行くの」と聞いた。品川曰く「広島に出て帰る。それには何分の汽車に何処で・・・』とくわしく説明したあと、蓉子夫人を指さして、「こいつは有名な方向オンチで、かゆい所までかいてやらぬと行方不明になるおそれあり、カナワンヨ」と言った。その後、俺はワイフから品川さんは親切でいいですね、それにひきかえ貴方は・・・」。とんだ所でドバツチリが返ってきた

 

中村 元一

品川が亡くなった時、丁度猿田と病院に居合わせた。何かの因縁だろう。娘さんの恭子さんが運悪く沖縄旅行中で、それに連絡するために冨士の奥さんの友達の電話を使わせてもらった。何回か沖縄の旅行社に電話をかけさせてもらったが、本当に助かった。お礼申しあげたい。

 

恒川愛次郎

 神池空で戦闘機学生を終って、19年8月1日、大村空に着任したのが、品川、合原、粟屋、杉本、遠藤、村上、恒川の7名。当時我々の飛行時間は250時間程度のひなとりだったので、練習生と予備学生の教官をやりながら自己練成に励んだ。零戦の各型、雷電、紫電など一応乗りこなせるようになったが、品川は操縦もうまく、特に紫電が好みに合っていたようだ。

10月26日、B-29による最初の爆撃を受け飛び上がったが、この時地上指揮がまずく遥か頭上にB-29を見上げただけだった。

11月25日には伊吹などの所属する352空と協同して戦果を上げることが出来た。この頃特攻隊の募集がありクラス全員志願。まず合原を送り、ついで品川、粟屋が台湾に進出していった。俺も翌年2月台湾に進出したが、途中沖縄に立寄ったところ、粟屋が脚を骨折して沖縄で治療中。台南にいってみたら品川が眼を負傷して眼帯をつけていた。大村空時代、長崎の丸山あたりを散策?することが多かったが、品川と合原はこれに加わった記憶はない。

 

間中 十二

昭和25年頃、俺は印刷屋につとめていたのでよく、京浜急行の品川の所に注文を取りにいった。

28年5月。俺は横須賀追浜の県営アパートに入居したが、品川はその頃京浜の追浜寮にいた。品川の結婚したのが27年の2月だそうだが、あまり綺麗とはいえない寮にたびたび訪れた。俺の長男幸一が27年12月生まれ、品川の長男が28年3月生まれで同級生。俺はカメラを持っていなかったので、品川のカメラでよく子供の写真を写してもらったものである。

 

 重夫 

昨年10月、長男の結婚式には品川に仲人をしてもらった。その時品川は「これで丁度12回目の仲人をしたことになる。仲人もこれでやめたい」とお目出たい結婚式のあとで品川らしからぬことを言った。不審な予感がした。かなりつかれていたのではあるまいか。

 

国生  

品川家から200メートルほど駅よりの方に住んでいるが、俺の方が先住民族。この一帯の造成に際して地元の反対があり、京浜急行の担当重役として、品川は大変苦労した。倅が京浜急行に入社するに際して保証人をお願いした。

 

高橋 猛典 

2月の10日にはじめて診察したが、すでにその時、見ただけで(さわらずに)これはいかんと思った。……オフレコ省略…

もっと早く手を打つべきだったと悔やまれてならない。お役に立てずに残念で申訳なし。諸君の早期受診、早期発見治療を望む。

 

冨士 栄一

京浜急行の橋梁の3割位は宮地鉄工で施工させてもらっているが、仕事での関係は直接なかった。50年9月、小生が高橋の所に入院中、品川は世界一周の旅行にでかけるといって診察を受けにきた。ところがそれ以来、仕事が忙しかったのか受診していなかったという。全く残念だ。

 

押本 直正

昭和22年の暮、当時鹿島組(現鹿島建設)横浜支店に勤めていた俺は、石鹸のヤミ売りをやったことがある。品川の兄さんが京浜急行の厚生係をやっていたので、品川を介して納めたが、当時の石鹸は2、3日で軽石のようになる粗悪品で申し訳ないことをしたと思っている。「なにわ会ニュース」のカットは全部品川が書いたものだし、彼の校正は実に正確だった。今後ニュースに誤字脱字が目立つようになると思うが、そうしたら品川を思い出して欲しい。

品川の几帳面さは定評のあるところだったが、当日昭和50年の世界一周の思い出、昨年の江田島と京都旅行の思い出を纏めたものを見せてもらって驚嘆した。立派に製本装填され、活字のような文字がぎっしりつまっており、自分か写した写真、絵はがき、観光案内、入場券、ホテルのレシート、独特のカヅトが見事にレイアウトされていた。とくに「京都と江田島」は彼が亡くなった後に完成したとかで、死を覚悟して妻子に遺した絶筆のような気がして涙なしには読むことができなかった。

なお、品川の納骨式は8月4日行われ、樋口、高橋、加藤、郡が出席した。墓所は鎌倉霊園の一隅にあり、森本達郎、伊藤孝一一家と同居、飯沢の横浜霊園とは隣あわせである。 

惜しまるる 

花の散り行く 定めとて

清き瞳を 誰か忘れん

冨士栄一             合掌

(なにわ会ニュース39号10頁 昭和53年9月掲載)

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