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平成22年5月7日 校正すみ

澤本 倫生君を偲ぶ

70期 三浦 節



 澤本倫生君が逝ってから、あっという間に1ヶ月経ってしまった。澤本海軍次官が激務のさ中にお書きになった日記を借りて読ませて貰った時は世話をかけた。あれから3年になる。当時の澤本閣下の日記の字は、なるほど息子が判読するしかないほどに読みづらいものだし、走り書きしか出来ない環境であったろう。それを息子がこつこつと整理すること15年に及んだという。私は70期の会報に澤本次官日記の内容を報告したが、結局この日記は出版されることなく倫生君も亡くなった。

 この時拝見した閣下の「追憶の記」によると、70期の兄貴 太華生が生れた時にワシントン会議が開かれていたので、その名を華府(ワシントン)からとったし、倫生という名は閣下が英国駐在の時に東京で生れたが、倫敦(ロンドン)からとったとある。正に英米派の思いが込められている。

 70期の太華生君は4学年の時に病を得て兵学校を去った。その時、兄貴が兵学校を去るに当たって旧友に長い決別の手紙を書いて、これが中央廊下に掲示された。倫生君と同分隊で生活していた私が、「澤本 すぐに見て来い」とアドバイスしたと倫生君が(おぼ)えていた。太華生君は東京大学を出て実業界で活躍していたが平成13年1月に亡くなった。

 兵学校72期が昭和15年12月1日に入校して、倫生君は第4分隊に配属され、私と一緒に生活することになった。69期が一号で、私が二号、71期が三号、彼は四号生徒であった。二号の70期は9名、四号の72期は14名いたと思う。翌16年3月25日、一号69期が卒業して、同じ第四分隊で私は一号になり、倫生君は三号になった。

 事の起こったのは、その年の四月、相撲のシーズンが始まった時である。前年の12月に入校した三号生徒は始めて(まわ)しをしめて相撲の用意をしてきたわけであるが、私が並んだ三号を前にして、こう言ったのは、63年前のことであるが、おおよそ記憶にある。

「貴様等三号生徒、ここに並んでいる一号生徒の身体を見てみろ。まるで貴様等と違うのが分かるだろう。しっかり鍛えて追いつけ。今日はドンとぶつかれ」

 私は卒業時、剣道三段、銃剣術初段、体操一級だったから、あっという間に押し出すか、右からの上手投げでよかろうと思って仕切りに入った。ドンとぶつかれと言われた澤本三号生徒は頭を下げて一号生徒の胸をめがけて頭突(ずつ)きをかましたのである。63年経ってもまだ覚えているが、この澤本号生徒の頭の硬いこと、まるで石の塊である。小生はそれで土俵を割ったのか倒れたのかよく憶えていないのだが、戦後澤本のやつめが宣伝して回るところによると「言われたとおりドンとぶつかったら伍長が倒れてしまって、急(きょ)入院退院後しばらくは青マークであった」と。

 小生は、俺は兵学校で入院などした事はないと反論に努めたが、宣伝力は向こうの方がずっと上であった。

(現在のなにわ会名簿で四分隊四号は12名になっているが、この他に73期で卒業した山下直己と1学年で退学した出本 渉がいるので入学時は14名であった。    (編集部 

(なにわ会ニュース92号13頁 平成17年3月掲載)

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