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平成22年5月8日 校正すみ

佐々木 庄君を偲ぶ

庄君を偲ぶ 飯野 伴七

佐々木庄君(艦攻操縦)は昭和19年8月6日、上海戊基地に展開していた256空に赴任した。256空は19年2月1日開隊した。戦闘機1隊、艦攻半隊で編制され、水上機も若干あって、中支・上海・北支沿岸哨戒防空が任務であった。同時に着任したのは艦攻偵察 篠田、戦闘機操縦 金子、・山仲、・山下、宝納、・松山、・飯野の計8名であった。

佐々木は背が高くスリムな体に、笑うとエクボが出来る張切った中に親しみのある好青年士官であった。私はデッキが異なるので、兵員、分隊員との関係はよく分からなかったが、内外にもてていた。艦攻隊は哨戒又は偵察の実戦任務出動で朝早く出撃し、又夜間に帰投のこともあって深夜に及ぶ時、指揮所で待つ分隊長に篠田が「佐々木の操縦ならきっと戻るし大丈夫ですよ」と言っておったのが印象的で、君は帰投後「基地ドンピシャリだよ」とケロリとしておった。

昭和1910月よりフィリッピンで特攻が開始され、戦闘機搭乗員の消耗が激しく、その補充のために他機種操縦員の戦闘機への転科が行われ、艦攻操縦の佐々木も20年3月に転科が発令され内地に帰った。その時、零戦を操縦させろと乗ってみて、軽くて非常に乗り易い飛行機、これなら大丈夫と言って赴任して行った。

上海には在留邦人が多数おり、20年6月半ばの内地引揚まで、何回か艦攻隊の対潜哨戒、戦闘機隊の上空直衛が行われた。また金融・商社・科学者の知識人も多く、飛行機好きで飛行場に遊びに来ておった自然科学研究所の科学者の中学生の息子がおり、飛行場に程近いフランス租界の家に招かれ、小学生の娘さんを含めた4人の家族に囲まれ、コーヒーを振舞われ、ピアノを聞き、ダンスの手ほどきを受けた。その中で、雰囲気に一番ピッタリしたのが佐々木で、一緒に写した写真では満足した顔が写っている。また篠田の親戚の婦人が日本留学の中国人と結婚され、上海陸戦隊近くに住んでおり、篠田の案内で外出時訪問し、歓談の一時を過ごした。

20年3月、名古屋の明治基地へ転勤し、転科の零戦訓練中は恒川と一緒になり、その後郡山航空隊に転じ、終戦間近、特攻隊編制、8月18日、出撃の内報もあったとのことである。

青森に復員後、大船渡の商船会社に職を得て勤務し、美佐子夫人はその時代の恋女房と聞きおよんでいる。その後海上自衛隊に入り、小山の現住所に平和な家庭を築いた。

トランプ・麻雀等、遊びは達者で巧者。大船渡・海上自衛隊を通じ、勝を挙げ、「小遣いは稼ぐよ」と言っておったのも君の一面である。

15年程前、上海でお世話になった篠田の親戚の婦人の里帰りでは、市ヶ谷グランドヒルで篠田を中心に歓迎会を開き記念品を贈ったが、君は小山の自宅へ一泊招待の上、日光見物を案内し、かつての上海時代のご恩返しをし、礼を尽くしたのである。

毎年、上海当時の256空、雷部隊の戦友会が行われ、今年5月、岡山で23回目の大会が開催されたが、艦攻隊員の期待も空しく君の出席が見られず、ここに幽明を異にしたのは誠に残念である。  合掌。

(なにわ会ニュース68号15頁 平成5年3月掲載)

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