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平成22年5月7日 校正すみ

酒井 博さん逝去

加藤 孝二

戦死した酒井 洋と同姓同音の酒井 博が72期に在籍したと知るクラスは少ない筈である。

酒井さんは小生が26分隊4号時代の3号生徒、対番は故小林丈士である。69期の君子、姫野 修伍長の薫陶を受けた。姫野さんの方針か、また、それを70期の倉科伍長が踏襲されたのか、同分隊の69期、70期に鉄拳修正を受けた事がない珍しい4号、3号であった。

それでも入校当時は御多分にもれず、「4号何しとるか〃」の連続である。酒井さん(俺にはさんづけでないと気分がでない)は口数の少ない人だが、4号がヘマをしそうな時は先廻りをして注意してくれた。知らん顔をしていながら温い眼でみていてくれた想いが残っている。

酒井さんは71期の卒業の4ケ月前に胸をやられて呉海軍病院に入った。以降江田島に帰校することなく72期生として卒業証書を呉病で受け、呉海兵団付、佐世保海兵団付で8月15日を迎えたらしい。

 

戦後、横浜の港湾関係の会社に勤務され、街中で偶然会い挨拶をしたが、酒井さんは71期で卒業されたと思い込んでいた。当時の期会名簿には酒井さんの名はなかった。店にカメラを買いに来られ、私は顧客カードに記入した。その後、何かの折に72期の29分隊(伍長名村は呉病に見舞に行って会った由)に在籍と判明、大谷に通報した次第である。
4号同分隊の小沢尚介が、日本鋼管の鶴見の所長として転勤して来た折「オイ加藤、26分隊会をやろう」と幹事一切をやってくれた。

酒井さんは戦後初めての海軍の会に出席された。「酒井さんは71期の席に座って下さい」と頼んだ。二度目の分隊会にも出席され、帰途は、私は辻堂、酒井さんは茅ヶ崎で一緒に帰った。

律義な酒井さんは定年で止める時、これからは、横浜に来ないからと、わざわざ挨拶に来られた折、私は御自宅の地図を教わった。

今年の6月7日、地図を頼りに酒井さんを訪ねた。「海軍でお世話になった72期の加藤です」と夫人に申告、昨日北海道旅行から帰った処でよかったとのこと、3時間、懐旧談の花が咲いた。往路は90分、帰りは近道を教わり35分で帰宅した。酒井さんの奥さんから、「主人が楽しかったらしく御機嫌でした」とお礼の電話をいただいた旨、カミサンから心楽しい報告があった。

6月28日「昨夕酒井急死」の電話連絡を受け絶句した。奥さんから海軍の方には成るべく控え目にとの伝言があり、俺は馬鹿正直に、その儀、幹事の毎熊、名村、樋口と71期の伊津野さんに電話した。通夜には済々黌からの同期の寺村氏と私が列席した。「主人は余り海軍のお役に・」と辞退される夫人に、同期の不文律ですから、お棺の中に入れるお花の仲間に入れて戴ければ・・・。気になるようでしたら名札等はつけずに・・・とお願いした。

クラスの生花は最上席にあった。

 葬儀の日、酒井夫妻はジャレ合っている様な仲の良い夫婦だ、と夫人の友人方の話、澄子夫人の御兄弟が近所に居られ仲がよく、3組の兄弟夫婦つれだって旅行するのが楽しみで・・・等今時微笑ましい話が出た。

正月、親戚が集っての宴席で酒井さんの番になった時、私は軍歌しか歌えないからと云って「同期の桜」を初めてききました」との話を伺った時、海軍を大切に心に秘めて居られた酒井さんを偲び胸せまるものがあった。

8月2日、酒井さんの葬儀に行けなかった71期の伊津野さんと江上さんの案内役として酒井家に伺った時の酒井夫人の話、「主人は旅行が好きで、日本の大方の処は連れてってくれました。たヾハワイと沖縄だけはどうしても駄目でした」

「あそこは多くの人が戦死している、俺は旅にはいかん〃」

雨降りしきる火葬場で、私は昭和27年第一回慰霊祭の折の草鹿校長の祭文を思い、かみしめていた。

「中に少数の人は訓練中に殉職し、或は不幸病を得て不帰の客となられましたが、其の烈々たる尽忠報国の精神に至りては、素より優り劣りはありぎせん」

謹んで御冥福を祈ります。

(なにわ会ニュース59号26頁 昭和63年9月掲載)


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