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平成22年5月5日 校正すみ

一通の手紙

74 久保  

我々43期飛行学生操縦組で押本さん(当時は安藤中尉)の名を知らないものはいない。中でも私など、同じ飛行隊に属し、常に飛行作業を共にし、練習機教程は勿論のこと、実用機教程(艦爆)から中練特攻まで、ずっと一緒だったので、殊に忘れられない先輩の一人であった。ご本人は、練習機の教官配置は貧乏くじを引いたようなもので不本意だったと述懐されていたが、我々にとっては三号の生徒館生活に戻った感じ、後進の指導に力が入りすぎる余り、しばしば脱線することがあって少なからず被害を受けたが、今ではすべて懐かしい思い出となっている。

戦後も毎年桜の季節に行っている74期飛行学生の会を通じて、交流が続いており、その全国大会で、昭和59年には故郷の霞ヶ浦へ、そして平成4年には北海道まで足をのばし、千歳、美幌の戦跡を巡る旅を楽しむなど、我々の集まりには欠かせない存在となっていた。

正直言って、当時の記憶も半世紀以上もたった今日では、さすがに怪しくなり、思い込みやら錯覚やらが入り混って特定することが出来なくなっているが、今から2年前にこんなことがあった。

平成12年4月、突然押本さんから一通の分厚いお便りを頂いた。この年も既に例会でお会いしているのに何事ならんとはさみを入れると、中から出てきたのは何と自らの飛行記録と飛行機野郎と副題のついた自分史の一節をコピーしたものであった。そして今度改めて貴クラスの「飛行学生の歩み(昭和59年発行)」を読み返し、貴兄の飛行記録とつき合わせたら、昭和20年7月、美幌空での中練特攻訓練で何回も同乗しているのを発見、非常に懐かしく嬉しくなったので参考までに自分のものを送ります。その時はとても楽しく愉快でしたねと添え書きがしてあった。思えば、この時、特攻要員は、昼夜を問わず猛訓練に励み、最も充実した日々を送っていた。スリル満点の超低空飛行や編隊離着陸、或いは危険と隣り合わせの降爆、網走港停泊艦船攻撃など戦闘実技訓練の模様が今更のように想起され、嬉しさがこみ上げてきた。ただ、後席の教官には、ヒヤヒヤの連続でさぞ心胆を寒からしめ寿命の縮む思いをさせたはずであるが、残念ながら具体的な記憶をよみがえらせるまでには至らなかった。何れにせよ立場の違いはあれ、当時のことを共有している人が身近に、しかも、確かにおられることを知り、感慨一入のものがあった。平成11年秋、金婚式を迎えられた押本さんは、青春時代を追憶、再びこの地を訪ねておられる。自らの人生の仕上げをされていたのではないかと思われてならない。そして、この手紙の最後は、「飛行学生の会も段々数が減るばかりですが、元気な限り盛大にやりましょう」と結んであった。

ここに永年にわたるご厚誼を謝し、謹んで御冥福をお祈り申し上げます。

(なにわ会ニュース86号58頁 平成14年3月掲載)

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