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平成22年5月4日 校正すみ

大山 裕正兄を偲ぶ

宮田   實
若松 禄郎

大山 裕正

 大山裕正兄が平成20年7月26日肺炎のため亡くなったとの訃報が届き、しかも、その葬儀の場所が「横浜」と記されていたので、吃驚した次第。小生にとっては、彼の現住所は「奈良」とばかり思い込んでいた。暫らく、「兵学校卒業以来、長年何で逢う機会がなかったのか」と頭から離れなかった。突然のこと故、当方の都合もあり、横浜でのお通夜(喪主長男の芳史様)に参列させて頂いた。

 大山兄との出会いは、入校直前、江田島民家の海軍専用クラブに参集した時に始まった。

 昭和15年8月受験した結果を11月3日(当時祝日明治節)に「海軍兵学校合格」の電報で受け取った。20日余り余裕があるので、皆準備に入ったと思う。

 江田島に到着するや、手続きを済ませ、指定されたクラブに入居した。全国各地から同志が集合、再度身体検査が行われるとのことであった。宿舎には既に、遠方の朝鮮、台湾出身者も居り、早く到着した者の中には「江田内で泳いできた」とか、「古鷹山に登って来た」とか。皆の意気込みに打たれた。この時に初めて大山兄に出会ったのである。彼は体格も大きく頑健である。また、佐賀県人であることを知った。

 兵学校入校は12月1日、第72期生としてその配属は第2部、第2班、第14分隊であった。入校後1ヵ月は各部毎に特別訓練・教育が行われた。

 なお、分隊毎には、一号生徒(第69期生)の責任ある日常の躾(しつけ)教育指導がある。当初は新入生同志が気軽に話し合える機会はないも同然、緊張の連続であり、また、行動は駆け足である。就寝後脚が攣()ることは、毎晩であった。日常生活に馴染んでこそ漸く自信が付くものだ。

 当時の一号生徒(第69期生)は昭和16年3月25日に繰り上げ卒業(正味3年間在学)のためか、短期指導の責任を感じ、伍長以下申し合わせて笑顔は見せず、我々の指導に当ったようだった。当時の起床動作は目標2分、やり直しの挙句、余裕無く人の後を追う日々が続き、また、食事についても当直監事の「分れ」の合図があれば、次なる集合場所へ駆け走る等々の毎日であり、1ヵ月もしないうちに体重は4kgも減った。この点、大山兄はすでに訓練を積んで来たのであろうか、隣の寝台で、起床動作は一番早く名乗りをあげ、行動が早かった。また、二人して並んで歩いていると彼が先輩に敬礼する。聞くと、「佐賀県人だもん」との返事が返る。特に、佐賀県人の結束は強く夫々地方の風俗のあることも知った。如何に世間知らずだったか想い知らされた。

 かくして、年度を追う毎に、我々も17年末には一号生徒となり、第74期生を迎えた。当時の戦況情勢は変り、ガダルカナル戦、メナド落下傘部隊等の戦闘指揮官(元教官)から夫々生々しい実戦報告を受ける機会も多くなってきた。

 同時に、昭和18年正月早々には戦艦「陸奥」が前檣(しょう)頭に大きな「電波探信儀一号」を装備して江田内に入港したことがあった。これら新兵器は小型艦艇にも活用される事を予期して「これらをマスターすべし」と通信関係の教科に加えられた。そして、戦局に併せたように昭和18年9月15日(約2ヵ月繰上げ)卒業と決まった。

 当時の第72期生の卒業総員625名は、航空・艦艇夫々半々に別れて実戦に臨んだ。マリアナ戦以降特攻戦に至るまで激戦に終始した。卒業後約2年にして終戦を迎えることになったのである。

 終戦時の四号時代の同分隊生存者は5名、平成20年初めの生存者は誠に少なく、航空関係に大山裕正、艦艇関係に宮田 實、若松禄郎の合計3名になった。そして、戦後の長い間、夫々仕事の分野も異なり、近年は老齢のため会う機会も少なくなってしまい誠に残念であった。

 5年程前に、若松禄郎がクラス会年度幹事をしていた時、奈良で亡くなったクラスメイトの香典を届けて貰おうと大山兄に電話したことがあった。電話口に出た御当人の様子が何とも忙しそうな様子に気付き、当方がいささか躊躇(ちゅうちょ)したことがあった。後日分かったことであったが、奥様の具合が悪く、そのお世話が大変であったようで、その後亡くなられたとのことであった。その後、一人で暮らすのはなお御苦労なことと思うのであった。何時しか、横浜在住の長男宅に移られていた。その間の事情も知らずに誠に申し訳ないと頭が下がる思いである。

 唯々、大山裕正兄のご冥福をお祈りするばかりです。     合掌

(なにわ会ニュース100112頁 平成21年3月掲載)

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