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平成22年5月4日 校正すみ

故小河美津彦と軍艦足柄

豊廣  

足柄の貴公子、小河美津彦君は平成5年2月22日午前7時13分、大分県津久見市中央病院202号室に於いて、主治医、病棟の看護婦さん、愛する家族(伸子夫人、2人の息子さんとその家族)に見取られながらその生涯を閉じた。

彼は大正13年1月生まれだったから、69歳になったばかりであった。

発病(胃の切除手術)以来9ケ月目のことであった。本人自身は、まさか自分が死ぬなどとは思ってもいなかったふしがある。というのは、奥様の手紙によれば、亡くなる前日の21日、見舞に見えた小学校の同級生に、足柄乗組時代のことを、笑みを浮かべて楽しそうに話していた。自分のいた場所を見取図に書き、艦橋との位置関係を判るようにして説明していた由。「その時、書いた図や文字が絶筆になりましたので、大切に保存しております」とのことである。(このあたりがやはり足柄の貴公子にふさわしい)

彼の死去を伝え聞いた私は自分の耳を疑った。彼が病気であることは不明にして知らなかったし、2年前の平成3年5月、草津温泉「ホテル一井」での第46分隊会には、あんなに元気に参加していたのにと思い、信じられない気持であった。

草津温泉の分隊会には松崎 修君が病気で欠席した(松崎の欠席通知のなかに胸膜炎のため欠席″との文言があり、痛々しかったことを覚えている)。そして間もなく松崎君は亡くなった(7月)。小河君に松崎死去の連絡をした時、彼から次のような返信があった。

「突然のお知らせ全く驚きました。松崎君とは4年前の水上温泉での分隊会が最後でした。昭和1811月、拝謁上京のとき以来の再会が最後になりました。結核体験者で肺活量の小さい小生と違って、元気一杯坂道を駈け上った彼を見て羨しく思ったことでした。彼が私より先に逝くなどとは全く想像もしなかったことです・・・」

クラスメートの死に思いをめぐらし、そしてその死を自分の健康状態に重ね合せて真剣に(いた)んだ1人の人間が2年を経ずして、また、あとを追うようにして同じくモノ言わぬ死の世界に旅立ってしまうなんて全くはかない。

人間の生死の不思議さ、情なさ、デリケートさ、たよりなさ、などをつくづく思わないではいられない気持である。

小河君の病没の状況をもう少し詳しく述べると、平成4年5月28日、前記津久見市中央病院に入院、胃の切除手術を受ける。同年7月7日快癒退院。同年1119日再発、入院再手術。以後の経過が思わしくなく、平成5年2月22日、同病院201号室において遂に永眠した。

葬儀は平成5年2月24日午後1時より、蓮照寺において行われた。喪主は長男、康彦氏(伸子夫人同居)であった。

それからもう一つ、奥様の手紙の中に小さい字で次のように書かれてあった。

私もこのことを記述すべきかどうか迷ったが、やはり小河君のことをよく知るために記述することにした。

「主人が入院したことを同期の方にお知らせすることを私はなんども考えましたが、病人から頼まれないことをすれば叱られそうでしたので、言い出さずにやめましたけれども、軍艦足柄会の事務局の方には、平成4年の足柄慰霊祭を目前に入院しましたので、事情をお話ししました」

とのことであった。因みに、葬儀には北九州市在住の足柄会事務局長・榊武雄氏が足柄会を代表して参列され、亡き小河会長に弔辞を捧げられた由、同じ海軍のOBとして感謝する次第である。
(小河君の病気ならびに葬儀の状況については足柄会の方にも照会したが、軍艦足柄会前会長・葛西清一氏(機36期)からくわしくお知らせをいただいた。(葛西氏は川崎市麻生区在住)。

 

本稿の冒頭に足柄の貴公子″と書いたが、なぜ貴公子かというと概ね次のような理由による。

第一に、小河君は足柄乗組が長かった(1年7ケ月)。2年ぐらいの実施部隊期間中、殆どを足柄で戦った。そして最後は足柄の沈没に遭遇し、足柄の終焉を見届けている。艦容あくまでも流麗で、由緒ある名艦足柄にふさわしく彼自身もまた、なかなかの美丈夫であった。

第二に、彼は小事にこだわらない性格で悠然たる風格を持っていた。

第三に、彼は正義感が強く不正を極度にきらい、常に毅然たる言動をとっていた。

第四に、部下の養成がうまく、いつも腹心の部下を持っていた。などであろう。

 

因みに足柄は、昭和12年5月、英国王ジョージ六世の載冠式に御名代・秩父宮殿下の御召艦として派遣された(足柄戦没者鎮魂之碑墓碑誌より)。

藤瀬詔国君から提供を受けた足柄資料によれば、昭和12年4月3日横須賀出港、5月10日英国のポーツマス港入港。以後5月20日、スピットヘッド沖で行われた戴冠式記念観艦式に参加した。当日は英海軍艦艇140隻、船舶150隻、外国軍艦16隻が参列したが、足柄はその強力な兵装と流麗にして精悍な容姿から英人に「飢えた狼」と評されたことは有名である。

帰途、ドイツのキール軍港を訪問し、英独両国と親善の大任を果たし、5月31日、キールを出港、帰途につき、7月6日佐世保に帰投した。

 

挽歌の海

6月末、小河君の奥様より次のような電話があった。「主人が書いた『バンカの海』という本がありますので、ご参考になればと思いお送りします」(その前に、私の方から追悼記を書きたいので、故人の手記みたいなものがあれば、ご恵与いただきたい旨お願いしてあったので)私は感激した。彼がそういうものを書き残しているとは全く予期していなかったからである。

「バンカの海」とはてっきり足柄が沈没した海域の名前で(事実そうであるのだが)、小河君の手記(戦記) の誌名としてふさわしいものだと思った。彼とは46分隊会で数回会っているのに、一切そういうことを話してくれていなかったし、また自慢話めいたことを殆どしない男だったから、全くの貴重品に思えたからである。

数日を経ずして本が送られてきた。B6判、七〇頁はどの小冊子であった。表紙は渋いだいだい色で、上方に横書きで『挽歌の海』とあった。これには全く意表をつかれた感じで成程と思った。バンカを挽歌とだぶらせたのである。挽歌とは葬送の歌だから、文学的表現でもあり素晴しい。下方に同じく横書きで著者名として小河美津彦と入り、中央付近に小さく足柄のシルエットがあしらってあり、すっきりしたデザイン、装偵であると思った。(足柄のシルエットは、足柄会がつくったテレホンカードやシールにも用いられており、そのテレホンカードは生前の小河君からもらったことがある)。

中味は活字ばかりであるが、読みやすいレイアウトになっており、読むほどに彼の人柄が偲ばれた。奥付はないが、あとがきの日付が、昭和5411月となっているから、丁度彼が55歳頃の作である。現在に比較するとまだ若かった。

 

巻末には、行動海域の海図も挟み込まれてあり、内容としては、彼の卒業以来の経歴が全部入っている。目次を列挙すれば、

@ 戦艦山城‐実務練習のころ-

A 捷一号作戦断片

B サンホセを撃つ‐礼号作戦‐

C 挽歌の海

D 終戦前後

E 特別攻撃隊若桜隊、解隊ノ辞

F ある友

G あとがき

H 軍艦「足柄」行動概要

(昭和1812月以降)となっている。

びっしり語った活字は、文章がまずければ、一頁も読みすすむことはできないが、『挽歌の海』は一気に読了させられた。文章表現のたしかさ、情景描写の旨さ、全くシロウト離れしているのには驚かされた。彼のどこにこういう素晴しい力がひそんでいたのか、不思議だ。もう少し長く生きていて欲しかった。そしてクラスの戦史づくりに一役買って欲しかった感がする。残念でたまらない。

文章もさることながら、文中における彼の戦闘中にとった行動、処置の適切さ、判断力のたしかさ、それは自然に文章の中からにじみ出ているが、全くたいしたものである。

私自身の当時の拙劣な指揮ぶりを反省するにつけ、忸怩(じくじ)たる思いに駆られる。

自伝とか戦記などは、得てして自分自身を美化して書きやすいが、彼はそういう姑息(こそく)な行為をする男ではない。読む側からしても、そういう不自然さは、なんとなく判るので、ごまかしはきかない。

 

私は六十九期のある先輩の外地航空隊における終戦処理の手記を読んだことがあるが、部下の統率の旨さ、判断力の適切さなど、ちょっと自分と違うなと感心したことがある。

小河君の文章を読んでいると、その六十九期の先輩と同じ感じである。とすると小河君は六十九期のレベルまで成長していたのであろうか。

同じ艦に続けて一年七ケ月も乗っていること自体珍しいが、自然に、あらゆることに習熟して、そのことがいい影響をもたらしたであろうことは想像できるが、しかし、やはり深底にあるのは、その人の人柄や人間性の然らしめるところであろう。

兵学校時代の基礎的な勉学は勿論、練習艦隊、実施部隊での、よりよい戦闘をするためのケーススタディや心構えみたいなものが積み重ねられて、立派な初級士官が育っていったような気がする。できれば『なにわ会ニュース』の読者に『挽歌(ばんか)の海』の全文を読んでいただきたいが、ここでは紙数の都合で出来ないのが残念である。折をみてぜひお目にかけ、若き日の軍艦足柄砲術士、(兼)第2分隊士、(兼)高角砲指揮官、小河美津彦中尉を偲んでほしいと思う。


 

小河君は昭和23年4月、小野田セメント鰍フ関連会社である地元の岩崎鉱業鰍ノ入社、常務取締役まで昇進したが、60年5月同社を退職した。61年4月からは津久見市内で従兄が経営する向洋保育園の教室を利用、園長の依頼もあり、中学生に英語を教えることになった。

週3日間、夕方7時半より9時迄、子供達を相手に英語を教えることに情熱を燃やす日々であったようである。

まだまだ、10年、20年生きて欲しかったが病気には勝てず、好漢小河君も、若くして逝った期友や足柄の多くの戦友たちのもとへ、足早やに旅立ってしまった。残された者としては、櫛の歯が欠けて行くようで淋しいが、頑張って生きて行かねばならない。小河君の冥福を心からお祈りして筆を()きたいと思う。

(なにわ会ニュース69号8頁 平成5年9月掲載) 

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