TOPへ     物故目次

平成22年5月4日 校正すみ

小河美津彦と臼杵石仏

押本 直正

  小河の亡くなったのは平成5年2月22日、同じ日、私は大分県臼杵の石仏を見物していた。石仏は小河の住んでいた津久見から数キロの場所で、偶然とは言え何か不思議な気がしてならない。この前、小河に会ったのは昭和60年の8月で、場所は同じく臼杵石仏であったからである。

あの時は、小河と津久見駅で待ち合わせ、息子さんの運転する車で臼杵石仏、風連鍾乳洞を案内してもらい、竹田の島田茂久を見舞った(本誌53号31頁参照)。

 その時の小河の話。終戦の時、第5航空艦隊長官の宇垣纏中将を載せて沖縄に突っ込んだ70期の中都留達雄さんは、臼杵中学で小河の先輩。昭和16年の夏休暇の時に2人で大分航空隊を訪ねて体験飛行をした。中都留さんの最期が悲壮だっただけに楽しい思い出となった。小生に対して、「貴様もよく煙草を吸うな、俺も止めようと思っているがなかなか止められぬ。何とか良い方法はないかな」。

小河の訃報を聞いた時、彼は死ぬまで煙草を止められなかったのだろうか、とつまらぬことが頭に浮かんだ。

本誌32号に、小河が「ある友」と題して、回天で戦死した石川誠三のことを書いているが、小河は卒業後、山城での実習を終って石川、小灘、吉江等と足柄に乗組み、昭和20年6月8日乗艦沈没、シンガポールに上り、終戦処理で大変苦労し復員も遅れたようだ。

 昨年5月、胃潰瘍の手術をしたが一旦退院、11月再入院、そのまま病院で亡くなったそうである。

大分県から72期に入ったのは8人だった。

有村信義(日田中学、昭和19年2月17日、香取乗組、トラック北水道)

池田誠治(宇佐中学、昭和19年2月17日、香取乗組、トラック北水道)

高橋英敏(宇佐中学、昭和19年10月25日、筑摩乗組、比島沖)

池田仲光(中津中学、昭和19年11月6日、戦闘316、戦闘機、館山西方)

安東種夫(大分中学、昭和20年6月25日、イ361沖縄方面)

の5人が戦争に散った。

小河美津彦(臼杵中学)、島田茂久(竹田中学)と私(宇佐中学)の3人が残った。

今また小河を失い、大分県出身の72期は二人になってしまった。

その一人、島田の家を同じ22日に訪ねた。島田は昭和45年9月、第1回の脳発作以来、病床に親しむことを余儀なくされているが、夫人の話によると、「現在は竹田市の老人ホームで療養中、意識は明瞭だが言語行動は不自由」とのことで面会は遠慮した。

家業の書店は2年前に止めて、娘さんがセサミという美容院をJR竹田駅前でやっている。

小河が死んだ日に、その近くにいたとは全く不可思議なことである。夫人とも電話で話したが、小河が呼んだとしか思えない節がある。島田の見舞に久しく行ってないから、貴様ちょっと寄ってくれんかと頼まれたような気がする。

謹んで小河美津彦君の御冥福を祈る次第である。

(なにわ会ニュース69号44頁 平成5年9月掲載)

TOPへ     物故目次