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平成22年5月13日 校正すみ

西川 賢二君を偲ぶ

小河美津彦

昨秋11月2日西川賢二君が亡くなった。私が知ったのは12月14日、鈴木脩君からの連絡で、心肺疾患とのことであった。

戦後、私は西川君とは江田島で一度、佐世保(足柄戦没者慰霊祭)で一度と、計二度しか会っていない。

その他は年に1、2回、彼から電話がある程度だったが、胃の手術以来、休調があまりよくないのではないかと私は感じていた。とはいうものの元気一杯だった彼の足柄時代を知る私には、彼の急死はひとつの驚きであり、歳月の仮借(かしゃく)なさを痛感したことであった。

私は足柄で昭和18年12月から20年6月まで彼と一緒だった。はじめは兵科6名、機関科2名・主計科1名だった同期が、つぎつぎに転勤で艦を去り、19年8月以後は彼と私と機関科の坂梨忠君とが残ったのである。

甲板士官だった彼は、巡検を終えてからビールを飲むのが日課だった。暑い艦内をひとまわりしてガンルームに帰ってくると、ソファにどっかと腰をおろして従兵の用意したビールを一気に飲み干す。あのギョロリとした眼が陶然となって、口端にビールの泡を残した満足そうな表情が、今でも眼前に浮かぶようである。

宇垣纏中将の日記「戦藻録の昭和19年12月29日付に次の記載がある。

「我水上部隊は26日夜,基地部隊の策応の下ミンドロ島に殴り込みを行い輸送船団、魚雷艇を撃沈し、敵飛行場及物資集積所を砲撃した。サンホセ方面泊地突入には最適の地点、此の事あるを望めるが、よくぞやりたり。我等在隊せば、当然参加する処をと思う」

この攻撃部隊は、二水戦司令官木村昌福少将指揮による霞・清霜、朝霜、椎、杉、樫と足柄、大淀の計八隻である。この夜、サンホセを前にして部隊は2時間近くにわたり敵機の猛烈な低空銃爆撃にさらされた。清霜は爆撃により沈没・椎はマスト倒壊、大淀には爆弾2発命中(幸いに2発とも盲弾であった)、そして足柄は対空戦闘中、左舷中央部にP38の激突を受けた。機体は舷側大孔をあけて艦内に飛び込み火災を発生して、遂に魚雷投棄の己むなきに至った。幸いに速力や砲戦能力に影響はなかったが、火は突入砲戦中も燃え続け、夜半過ぎになって漸く鎮火した。(49名戦死)。

この消火指揮に挺身奮闘したのが西川賢二中尉であった。翌朝私が会った彼の姿は、前夜の苦闘を物語るように顔は薄黒く汚れ、眼が窪んで一夜で憔悴(しょうすい)したよう表情になっていた。何度も水を浴びたらしく着ていた雨衣に塩が白く浮いていて、裾の方はまだ濡れていた。

「いや大変だった。とにかくあれだけで精一杯だった。あの近くへ爆弾がもう一発でも落ちたらどうしよう、と思ったよ」

などと話してくれた。自分のことはあまりいわなかったが、後日、彼の行動は艦長から

「さすがは兵学校出だ」とお褒めをいただいたとのことである。

昭和20年6月8日、足柄はジャカルタからシンガポールへの陸軍部隊輸送の途次、スマトラ東岸のバンカ海峡北口で英国潜水艦の攻撃を受けて沈没した。

このとき西川君はシンガポール出港前にアメーバ赤痢発病、重症のため出港前日に海軍病院に入院した。彼の代理内務士(予備学生出身の中尉)は沈没の際に戦死しているので、彼も在艦していたらどうなっていたかわからない。

一方すでに転勤がきまり後任者も着任していて、帰港後に退艦の予定だったコレスの坂梨君が、このとき戦死しているのと思い合わせると、つくづく運命というものを感じざるを得ない。

彼は順調に回復し約一か月後元気に退院したが、折角ひろった命である、大切にしてもつと長生きして欲しかった。

   足柄戦没者の遺族と生存者の集まりである軍艦足柄会は、毎年6月上旬に佐世保で慰霊祭をしている。私は、九州在住の故もあって毎回出席しているが、西川君は昨年、「俺も一人になったから、そのうちに出席しようと思う」などといっていた。

一昨年、足柄会では慰霊祭の記念品として、足柄の艦型シルエットを染めぬいたタオルを会員に配布した。

自宅に安置された西川君の遺骨には、納骨の日までそのタオルがかけられていたという。生まれ変わってもまた兵学校へ行きたい」といって兵学校と海軍を愛していた西川賢二君に、同期の一人として、縁あって同じ艦上で共にたたかった戦友の一人として、追悼の意をこめてこの一文を捧げる。「何をつまらんことを言っとるんだ」と彼の失笑が聞こえてきそうである。

謹んで御冥福を祈り、御遺族のご多幸を祈ってやまない。
(平成2年1月)

(なにわ会ニュース62号11頁 平成2年3月掲載)

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