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平成22年5月13日 校正すみ

君子 西川 生士 逝く

野崎 貞雄

5月1日、2年余の闘病の後、西川は忽然と死去した。死因は肺がんであった。4月半ば頃、森川より「西川の病状香ばしからず」との連絡あり、心配はしていたが彼の気力体力を信じ、そんなに簡単に参る筈がない、その中に会いに行こうかと思っていただけにショックは大きかった。

3日の葬儀には、関西の期友始め元の勤務先であった丸善石油関係者も多数参列され、しめやかな中にも盛大に行われた。

或る程度予期され覚悟はしていたものの、突然の最愛のご人との永別という事態を迎え、長期に亙る看病の疲れも押しかくし弔問客に丁寧に応対される奥さんの健気さに一同強く感動した次第である。

昭和15年12月、我々は勇躍舞鶴湾頭に結集した。海軍機閲学校第53期生としてのスタートである。小生配属は第5分隊、松田を先任とし西川、中川、角田、北村、小田(正)と小生の7名の四号であった。生徒時代の思い出は四号時代が最も強烈だ。小生の「のろま」と「ぼやぼや」の為に皆に随分迷惑をかけた。俺の不始末の為に予定外の鉄拳を何発見舞われたことか。嵐の吹きすさぶ中で、特に西川は気丈で而も心のやさしい男だった。陰に陽にカバーしてくれ励ましてくれた。西川の真珠の様にすみ切った目、それは貴公子そのものだった。その清純でやさしいまなざしは四号時代から死ぬまで変らなかった。

「目は心の窓」とは良く言ったものである。真面目で凡帳面、而もスマートである。西川こそ模範的な海軍生徒、海軍士官であり我がクラスの誇りであった。そして戦後もその姿勢を崩さなかった。正に君子と呼ぶに応しい男だったと断言出来る。

卒業後、西川は整備学生へ,小生は榛名に赴任した為戦時中は一緒に勤務したことはない

終戦により彼は郷里の和歌山に帰り、丸善石油に奉職、下津、五井、松山及び大阪堺等各地製油所の課長、部長、工場長等を歴任した。小生は栗田氏(49期)の下で栗田工業を創立、水処理薬品、装置等の製造販売に従事したが、ここで四号時代以来の密接な交友関係が復活した。昭和26、7年頃だったと思う。創業当時の信用も名もない栗田工業に対し随分応援してもらった。四号時代の時と同じ様にやさしく、暖かく励まし援護してくれた恩義は忘れられない。

西川は公私の別の厳しい男だった。随分仕事上世話になったが、彼を接待した記憶はない。逆に小生の方がしばしば歓待されたことを思い出す。

松山石油化学の工場長時代(昭和40年頃か)豪華な工場長社宅に住んでいたが、それは通称「坊ちゃん湯」(松山市の市営温泉)の直ぐ近くにあり、「そこらのホテルに泊る位なら俺んとこに泊れよ。温泉付きだ」とすすめられ、小生無類の温泉好き故これ幸いとばかり四国出張の度に何度もお邪魔した。

朝「おい起きろよ」と起され、一緒に朝風呂に行ったのは最も楽しい思い出になった。

発病後も何回か会ったが、その都度坊ちゃん湯と松山ゴルフ場の思い出話に花が咲いた。

その中に全快したら坊ちゃん湯につかり、松山ゴルフ場で一戦交えるかと言ったのも今は空しい。

昨年10月、九州方面へ旅行の途次立寄った。

この時は自宅療養中で血色も良く元気そうで、非常に喜んで迎えてくれ、是非ということで、半ば強引に泊めさせられた。

グリーン上の決戦は先のこととして盤上で一戦交えるかということで石を握った。この前年にもやったがその時は当方中押負けだったので、今回は是非借りを返しておきたかった。「病人のくせに随分厳しい果敢な手を打つな」というのがその時の実感だった。小生の執念が僅かに勝り辛勝したが、西川の気力の充実がひしひしと感じられ嬉しかった。

翌日森川に電話した。「ああいう碁をうつなら西川は心配ないよ。貴様より強いかもしれん。一度うって見ろ」

この時が西川との最後の出会いとなった。

海軍士官として又社会人として、更に家庭の主、夫、父親として西川は十二分にその責を果し一生を全うした。

これから奥さんと二人で存分に人生を楽しもうという矢先に、彼は忽然と逝った。さぞ無念だったろう。

西川よ、安らかに眠れ。合掌。

(なにわ会ニュース61号15頁 平成元年9月掲載)

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