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新見政一海軍中将の想い出

岡本 俊章

新見大先輩のご業績については、水交誌5月号、中村水交会長の弔辞及び6月号所載の大井篤先輩並びに鳥巣建之助先輩の憶い出の記に詳しく述べられており、不勉強にして、私の知り得なかったことも少なくなく、改めて尊敬の念を深くしているところである。

とりわけ私にとっては、出身中学校の大先輩でもあり、中学生当時からの尊敬の的であり、誇りにすら感じていたものである。

ところが昭和十五年、余り自信のなかった海軍兵学校の採用試験に合格し、十一月末頃、海軍兵学校生徒採用予定者として江田島に参集した時、忠海中学校の大先輩である新見中将が校長閣下であることを知った。人校前の身体検査も一通り終了し、憧れの制服の採寸も終り、ホッとした時だったと思う。同じく忠中出身の樋口輝喜君(旧姓中野)と、どちらともなく、新見大先輩に挨拶に行こうということになり、まだ中学校の制服のままで、のこのこと校長室に出掛けた。校長室の近くまでは誰に咎められることもなくすんなり入ることができ、廊下でうろうろしていると、中から副官らしい中佐の方が飛び出すように出てこられ、何用かと聞かれたので、「新見中将の中学校の後輩です、ご挨拶に来ました」と告げたところ、一寸待っていなさいと言い残し、慌てた様子で校長室に人って行かれた。何で慌てられるのかと怪訝に思っていると、すぐ出てこられて「どうぞ」と言って中に案内された。二人で中に入って行き、海兵合格の挨拶をすると、予て写真で見覚えのある温顔に笑みをたたえ、椅子から立ち上り、ゆったりとした足どりで近寄っておいでになり、お声をかけて頂いた。何と仰言ったかよく覚えていないが、「しつかり頑張りなさい」と仰言ったように思っている。

瀬戸内海岸の片田舎から出てきた田舎者のため何も分らなかったが、あとで考えてみると、海軍中将の校長閣下のところへ、何の前触れもなく、のこのこと中学生が入って来たので副官が慌てられたのも当然であったと思うが、それにもかかわらず、即刻満面に笑みをたたえて、気軽に迎えて下さった、一介の後輩に対する温かい思いやりをひしひしと感じた次第である。勿論、室内の調度品等に眼を配る心の余裕などは全くなく、殆ど覚えていないが、執務机は大きく、床に絨毯だけは敷いてあったと思う。しかし、これが海軍中将の執務室であるといったような感じは全くない簡素な部屋であったような気がする。その後一度だけ、三嶋教授の英語の教務中、ただ一人でそっと室内に入って来られ、いつもの温顔に笑みをたたえながら、ほんの四〜五分だったと思うが、教務の様子を視察されたことがあり、校長閣下が立ち去られたあと、三嶋教授が例の調子で肩をすくめるようにして、

「校長閣下には頭が上りません、本場仕込みのキングズ・イングリッシュですから」と言われたので、初めて英国駐在のご経歴を知り、さすがに違ったものだと尊敬の念を深くした記憶が今もなお新しい。そして間もなく、第二遣支艦隊司令長官としてのご赴任をお見送りしたのを最後にお会いする機会もなかったが、海上自衛隊に入隊した私が、昭和38年、幹部学校学生当時、図らずも新見元中将のたゆまぬご研讃に基づく、深い蘊蓄を思わせる戦史の講義を受講する機会を得て、大変懐かしく思うと同時に、七十歳後半のご高齢とは思われない矍鑠たるお姿に益々敬慕の念を深くした次第である。昭和61年の白寿のお祝いにも、高松宮殿下始め先輩多数に混じって出席者の末席を汚したが、わが眼を疑いたくなるようなお元気な姿に接し、心からお祝い申し上げると同時に驚異さえ覚えた。

 

それから二、三年経った頃であろうか、新見大先輩が入院ご静養中と聞き、病院に参上お見舞したところ、至極ご元気そうで、いつもの温顔で大変嬉しそうにいろいろお話をされたが、耳だけは相当遠くなっておられ、ややもすれば会話もすれ違いがちであった。しかし、起居、用便等、人の手を借りられることもない確かさで、私がおいとまする時は、固辞したにもかかわらず、わざわざエレベーターの前まで見送って下さった程であった。最後にお見舞したのは、父上が新見元中将と同期の沢本、中村(元)、藤瀬の三君と一緒であったが百四歳のご高齢にもかかわらず驚くほどご元気そうにお見受けし、まあまだのご長寿をお祈りした次第であったが、思いがけなく本年4月2日、突然の訃報に接し哀惜の念に堪えない。

 

新見中将の名声は、忠海中学校生徒の誰一人として知らぬ者はなく、私もその一人として深く尊敬することは勿論、憧れの的でもあった。しかし、当時としては大変偉い人であるということだけで深くは知る由もなかった。幸いにも私は海兵の後輩として、きわめて稀ではあるが親しく接する機会を得て、慈父のようなそのご円満な人格に益々深く私淑していた。とはいうものの、その存在は余りにも高く遠く、その深いご見識の一端に触れるのがやっとであったと思う。

 

今にして思うと、新見大先輩はその名の表わすように、新しい将来に向ってとるべき道を見極めるため、孜々として過去の戦訓を調査研究されて飽くことを知らず、後世に語り継がれるべき見事な業績を残された、まさに温故知新の権化ともいうべき存在であったと思う次第である。

不幸にして新見大先輩の高いご見識は時流の入れるところとならず、日本海軍滅亡の一因となったといっても過言ではなかろう。しかしながら、その後の新見大先輩の献身的なご尽力は、海上自衛隊の中に日本海軍の世に誇るるべき伝統を深く根付かせるであろうことを信じてやまない。

 謹んでご冥福を祈る。 

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