平成22年5月13日 校正すみ
長山 兼敏氏 逝去
田島 明朗
訃報は4月30日に入りました。『早朝5時前、脳梗塞で亡くなった』と。
長山氏の病状は、後述のとおり、そんな単純なものではなかった筈だが、それにしても早過ぎると驚いていたところへ、追いかけて『主人のメモが見付かった。軍艦旗と「海ゆかば」のある海軍らしい葬儀にしてくれ、万事お任せしたい』と奥様からお電話を頂戴しました。
何しろ、呉鎮部隊は、篠田知武様以来山口勝士様、日野原幹吾様と不幸続きで、大和出撃後の2艦隊以上に寥々とし、クラスは実質ゼロ。困惑していたところへ年度幹事代表から「なにわ会としての弔辞を読め」とのご下命、したがって、特四号生徒が代読するという前代未聞の不敬を行った次第ですが、なにとぞご寛容いただけますようお願い申し上げます。
☆ 弔 辞
謹んで長山兼敏氏の御霊に申し上げます。太平洋戦争後期の2年間を戦った「なにわ会」会員一同は、各人各様の戦歴を抱いておりますが戦艦「金剛」からの生還、続いて大破した駆逐艦「柳」での奮闘は皆の承知しているところであります。
終戦のご詔勅が下がった直後、焼け跡の東京警備隊大隊長を勤めて復員された貴方は、ご両親とともに、家業の長山商店が待ち受ける呉の街に落ち着かれるはずでしたが、頭を下げることの無かった海軍大尉に商売はなじめず、東京に職を求めて生活されたこともありました。
しかし、父君を助けなければならない長男の貴方はやがて呉に帰り、長山商店を株式会社長山青果に発展させ、統合した呉中央青果では常務取締役の大任を果たされました。
前立腺がんの手術、さらに動脈瘤まで見付かっても、貴方の闘病生活は引きこもった陰気なものでは無かったと聞いております。
一昨年初冬には、奥様に付き添われて「生き残り最先任になってしまった以上はどうしても行く」と佐世保まで行って、「金剛」の慰霊祭に出掛けられ、58分隊伍長らしい責任感を発揮されました。
貴方はクラスの中でもネイビーの気質をもっとも強く持ち続け、海軍を誇りに生涯を過ごした一人だと思います。
「なにわ会」は戦後130余名が物故し、貴方を失って240名弱になった3校出身一同は、改めてご逝去を悲しみ、ここにお別れを申し上げます。
平成15年5月2日
海軍兵学校72期・海軍機関学校53期
海軍経理学校33期合同クラス会
「なにわ会」代表 豊廣 稔
代読 田島 明朗
☆ ご 病 歴
長山さんが前立腺がんの手術をされたのは5年前のことですが、不幸にも転移し、さらに手術の出来ない心臓付近に動脈瘤が見付かり、直径五センチにまで大きくなりました。それでも「あと1センチ大きかったら破裂するそうだ」と言いながら、月1回開かれる呉水交会有志の昼食会には、朝早く医者により、注射か点滴で血圧を下げ、今年1月の例会まで出席を続けられました。
国立呉病院に急遽入院されたのは、呉水交会月例昼食会から間もなく、30ぐらいの腫瘍マーカーの数字が80台にまで跳ね上がってのことです。
お見舞いに行ったとき、さすがに落ち込んでおられましたが、やがてマーカーの指数が30台に戻ると「入院しとってもこれ以上は良うならん」と退院され、また調子が悪くなると入院するということを繰り返しておられました。当方は動脈瘤のほうが余程心配だったのですが、最後は4月21日に脳梗塞で急遽再々入院、4月30日のご逝去でした。
☆ 海 軍 色 の 葬 儀
メモを残された以上、どのようにしてご葬儀にネイビーカラーを出そうかと考え、次の方法を取ってみましたので、ご参考までに申し上げます。
1 海軍出身者の葬儀で軍艦旗を棺にかけるのは一般だが、葬儀場の司会者に「棺を軍艦旗で覆います」とアナウンスを頼み、呉水交会の会長・名誉会長・副会長・73期で同分隊の若山氏の4氏にお願いし、葬儀開始に先立って旗を広げ、棺にかけるというセレモニーにしたてた。
二 弔辞の終わりごろに「海ゆかば」のテープをスタートさせ、水交会の皆様、ご起立ご唱和ください」で斉唱を行い、さらに出棺にあたり「軍艦マーチ」を斉唱、ラッパ譜「巡検」をテープで流しながら霊柩車を見送った。
呉という水交会員の多い土地柄も幸いしたのですが、奥様は伝達した「なにわ会」からの香典を花輪にかさり、3校名を大書した一対の生花を一番の上席に飾られ、弔電は72期を最優先、代議士や取引先などは名前を読み上げてという「海軍葬」になりました。
湿っぽいご報告は以上として、最後に長山氏の「金剛」慰霊祭旅行のエピソードを一つ。
☆ 最後の旅行で佐世保の「万松楼」に泊る。
「金剛」慰霊祭のため、一昨年佐世保に出掛けられたことは最初に記しましたが、この時、「今年は日帰りがキツイ。
一泊しようと思うが、日本旅館の良いのを知らないか?」と長山氏から電話を受けました。
特四「佐世保のことを私に聞かれるほうがおかしいですよ。昔楽しまれたレスがあるんじゃないですか?「山」か「川」が残っとりゃせんですか?」
長山「馬鹿言うな、KAも一緒なのじゃ」
こんなやりとりの末出かけられた「金剛」の慰霊祭でした。
佐世保から帰られたその晩の電話で
長山「貴様があんな事言うから「山」に泊まる羽目になった。
特四「いったいどういうことですか?」
長山「呉駅の読売旅行に宿を頼んで出掛けたが、どうも旅館に覚えがある。支配人に聞くと、「昔海軍サン御用でした」と言う。ありぁ「山」じゃった。「万松楼」ヨ。
特四「懐かしかったでしょう」
長山「お前、昔20円でストップしたレスにKAと一緒に泊まってあまりいい気はせん、ハラハラしとった。佐世保におったクラスの〇〇が10円の割引券を呉れたことがある。「もっと寄越せ」と言ったが一枚しか呉れなかった。しかし、佐世保にはナイスなエスが多かったで。」
海軍遺産のヘル語は、こういう時便利に使えるが、このテの話になると長山氏は持ち前の地声のオクターブが上がり、加えてクラスヘッドの妹さんが奥さんだから半分以上は解読されていたと思う。しかし、この件のお咎めがあったとは聞いていない。 それどころか、「佐世保で「山」に泊まった」ことは、この後何度もネイビー仲間に吹聴しておられたのだから満更ではなかったはず。これが長山氏の一泊旅行の最後になった。
私が結婚式の司会を勤めたご長男のお嫁さんにお通夜の時、久々に会い、「もう銀婚式を済ませましたよ」と言われたから、長山家とのお付き合いは、義兄の故和泉正昭氏が広島市民病院ご在職の頃には番組でお世話になったので、それを加算すると40年になる。
長山さんを失って「丁度一回り年上の兄貴」と思い込んでいる72期がまた減った悲哀を感じつつご報告を終わります。
(なにわ会ニュース89号22頁 平成15年3月掲載)