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平成22年5月15日 校正すみ

平成18年9月寄稿

茂木 允君への弔辞

泉  五郎

 


 まさかこの私が君に弔辞を捧げることになろうとは、本当に人生は分からない。

 今を去る33年前、私は当時、容易ならざることとされていた直腸癌の手術を受けた。泉の奴も概ねこれでお仕舞だろうと噂されていたようだが悪運は尽きず、それ以来癌の再発もなく何とか今日まで命を永らえた。

 一方、私と違い健康そのもののような君がまさか癌に侵されようとは信じられなかつた。

 2、3年来体調の異常を告げられ「俺はもう長くないんだ」などと言われても、どうもピンとはこなかつた。現にこの4月奥様と房州の方まで出掛けたそうではないか。

 去る13日病室に君を見舞つたときも、まさかこんなに、急な最後になるとは到底信じられなかつた。老境、友に先立たれるのは誠に寂しいものである。更にこのところ友の訃報も頻りである。

 思えばその昔「人生僅か50年、軍人半額25年」といわれていた。戦前戦中、諸々軍人の料金は一般の半額というのが当り前、その代わり人生も半分の25年が相場であると、世間も考え、自分たちもそのように覚悟してきた。

 江田島同期の桜は半数以上が無残にも護国の花と散った。幸か不幸か、敗戦のお蔭で我々はその後、あの道、この道と迷いながらも有り難い時代を過ごすことが出来た。

 思えば君は戦史に輝くゼロ戦の搭乗員、そしてその仲間は実に75パーセントが雲を紅に染めて大空に散った。命を永らえたのは神の思し召しであったに違いない。

 戦後、君は当時一緒に戦った藤田昇君の縁で、この千葉の地に人生の再起を図ることとなる。その藤田君も逝った。彼こそ我々の仲間では一番の元気者であったのに。

 やがて君は鈴木脩君の招きで、宮田さんの企業グループに身を投じ、そして新柳製菓の社長として大いに社業の発展に貢献した。然し時運の赴くところ、遂に中小企業の桎梏(しっこく)を脱することあたわず、廃業は、賢明な選択ではなかつたろうか。

 然しその間、人生の好伴侶、祐子さんを得て琴瑟(きんしつ)相和し、また二人のご息女も夫々立派に成長された。正に悠々自適の晩年、後顧の憂いもなく、時にはご夫婦での外遊など、人生これに勝る幸福はない。

 私も鈴木君のご縁でここ千葉の地に移り、そして貴君にも永年公私に亘り大変お世話になりました。仕事の面では言うに及ばず、若かりし頃はお互いゴルフに熱中、随分遠くまで遠征しましたネ。

 君のゴルフは豪快で、戦艦大和の巨砲並みの飛距離には大概のクラスメートが恐れ入ったものです。

 尤も、時にはあらぬ方まで球が飛んでゆき、そのときの君の声「ありゃー」が今でも懐かしく耳に残っています。

また今生の別れに際し今、君がまとつている軍服姿にも黒澤監督が采配をふるう予定であつた幻の映画「トラトラトラ」に出演のことが、ついこの間のような気がします。

 更にまた特に愚息の結婚式には勤務先の製品、無段変速歯車を模した、恐らく世界でも空前絶後の形をしたウェディングケーキの注文にも、見事な出来具合に皆様の絶賛を博しました。

 思い出の糸を手繰りはじめれば限りがありません。然し君は最後まで頭脳明晰、記憶力抜群、老耄(ろうもう)の気配は微塵もなく、とてもこんなあっけないお別れの日を迎えようとは痛恨の極み、只々ご冥福を祈るのみであります。

 最近、我が家も平和公園に墓を築き、墓石には「爛柯(らんか)一瞬 烏鷺(うろ)一如」と刻しました。

 いずれ彼の地でまたお世話になります。三日先でも十年先でも大差ありません。どうかその節は又、何卒よろしく。

 それよりも何よりも、ただ願わくは、貴君の霊力をもって、ご遺族の皆様を御護りください。

(なにわ会ニュース95号16頁 平成18年9月掲載)

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