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平成22年5月15日 校正すみ

ライオン眠る

村山 

堂々と正論を吐く偉丈夫、「ライオン」のニックネームで呼ばれる森山兄の獅子吼えは、とうとう聞くことはできない。

平成6年3月29日0907、湘南江の島を近くに望む教会のような閑静で、厳粛な趣のある聖テレジア病院で、不帰の客となった。脳腫瘍が原因である。

微かに笑みを湛え、人生を燃焼し尽くした満足感で、日だまりで居眠りをしているような穏やかな、澄みきった顔をしている。

森山兄の闘病生活は5年前に遡る。右脚の付け根付近が少し腫れ、東京府立第9中学校時代の同窓生原勝医師の助言を受けて、日大付属病院、次いで東芝病院に入院、最後に東大付属病院で、皮膚癌ということがはっきりとして、平成元年6月15日手術、爾後半年毎に抗癌剤を注射、徐々に体力を回復し、ここ2〜3年の間は、ゴルフは勿論、国内外の旅行に、思う存分余生をエンジョイし、近く東南アジアへも是非旅行をしたいと願っていた。

昨年10月、海軍機関学校卒業50周年記念行事としての伊勢旅行にも夫人と共に元気な姿で参加し、専らビデオ撮影を楽しみ、完成したビデオのダビングを送ってくれたし、この11月の抗癌剤の注射が終れば、無罪放免になると浮き浮きと自信ありげに話していた。

しかし、清子夫人の話によると、伊勢旅行のとき、既に兆候があった様子で、並の疲れ方ではなく、その後徳島に赴いたその帰り、キッブを買う動作が尋常ではなく、苦労してやっと帰宅したとのことであった。

何時ものことであれば、一週間で終る筈の11月の入院は、頭が重いんだと自覚症状を訴え、精密検査をし、2週間に延びた。

結果待ちで、一旦帰宅することになり、入院のときに乗って来た愛車を運転してお茶の水の病院から鎌倉の自宅までの帰途に着いたが、右眼の視界が狭く、車が知らず知らずに右へ右へと寄っていって、冷や汗をかきながら漸く帰宅したそうである。

帰宅後5日目の12月9日、病院からの通報で急遽再入院し、12月16日左後頭部切開の大手術をうけ、銀杏(いちょう)大の腫瘍を切除した手術は8時間に及んだという。

2〜3日は集中治療室で要注意の状態であったが、経過は順調で、5日目には抜糸、歩行も可能となり、手術前には出来なくなっていた簡単な計算能力も筆記力も元に戻り、長時間新聞を読んだりもし、右眼の視界は回復しなかったものの、手足に異常はなく、心配した後遺症は出なかった。

今年2月11日退院して、東中野で1週間静養後、19日鎌倉の自宅に帰り着くと、すぐ嬉しさのあまり、多くの友人に帰宅の報告も電話し回わった。回線を通しての彼の声は帰宅出来た喜びで弾んでいた。

3月6日藏元兄を誘い、鎌倉の家に彼を見舞った日は、大変元気にしていて、目を輝かせながら捷一号作戦のときフィリッピン東方沖で乗艦瑞鳳が被弾沈没、泳がされた苦い戦いなどを交え、四方山話に熱中したものであった。

頭部に放射線を当てていたせいでその部分は禿げていて、鶏の鶏冠のような形に部分的に頭髪が残っている現代の若者の髪型になっていた。

長く伏せていたからであろうか、帰り際、常連を見送るために応接間から玄関まで歩いてきた彼の歩き方は、ヨチヨチとした足の運びで、傍目にもちょっと気の毒な気がしたものである。病魔のなせる仕業であったのだろか? 往年の迫力はなかった。

3月19日夕、清子夫人から「2〜3日前から意識が少し朦朧とし、食べ物を吐き出し、それがコーヒー色をしているので、昨18日午後急遽救急車で近くの聖テレジア病院に入院しました」との連絡を受けた。

10日程前に会ったときの元気な彼の姿を思うと、夫人からの悲痛な報告には半信半疑の思いを抱いた。軽症であることを祈るのみ。野崎兄に声をかけ、翌20日早速見舞いに行った。

出血止めの処置と点滴で落ち着きを取り戻していた。私達の顔を暫く見詰めていて、漸く野崎、村山、村山夫人が分かった様子であり、微かにその名前を呼んだ。しかし、その後は言葉が出ないし、話をしょうとする力もなかった。手を握ってやると、彼の人一倍大きな手は、力強く握り返してきて、こんな病気には負けるものかとの彼の意気込みが伝わってきてジーンと胸が締め付けられた。

彼の病状を気遣った期友、先輩、後輩、友人らが次々と見舞った。

ある一日は、体温が39度前後に上がり、ずっと眠ったままの状態で、呼びかけにも反応しない。

熱の少し下がった日には、明るい窓に目を向け、咲き初める桜をじっと見詰めているようである。

「もののふ」として唯一途に過ごしてきた人生―青春をぶつけ合った海軍生徒時代、護国のため必死に戦った戦場のこと、戦後畑違いの築地生活、航空整備体系を確立、充実した海上自衛隊時代―を、感概深く思い返していたのではないだろうか!

その日は青く澄んでいた。

「森山」「森山」と呼びかけると、辛うじて分かるのか、うなずく素振りをするように思えた。

日毎に握力は落ち、体力が弱っていく姿は、悲しく、哀れであった。

3月29日0900過ぎ、清子夫人の「病院からの連絡で、容態がレベルダウンしています」との電話連絡を受け、病院に駆け付けたときには、森山兄は、先に旅立った期友の後を追っていた。

3月30日1600納棺が行われた。

清子夫人、長女成子さん、次女佳子さん、彼がめっぽう可愛がった四人のお孫さんに看取られ、遺体は、棺に納められた。海将の制服を着し、胸にはあの憧れの短剣が置かれた。彼は標準以上の大きな身体のため、特大の棺を使わないと納められず、その費用は、通常の1.5倍に跳ね上がる。

祭壇に安置され、1800から始まる通夜の準備に入る。案内係や受付係などは期友でしなければならないと思っていたが、海上自衛隊のご厚意で多くのお手伝いの派遣を得て、また、後輩等が進んでお手伝いを申し出てくれたお陰で、町内の方と合わせ十分の人数となり、馳せ参じた期友は、森山兄の側に待機し、じっくりと別れを惜しむことができた。

予想以上に多い会葬者で、斎場は溢れ、彼の人徳と交友の広さに感心するとともに戸惑いを覚える。

葬儀告別式は3月31日1300から始まる。斎場は立錐の余地もない程の会葬者で埋まる。本葬の日の会葬者は通夜の三割減位になるとの葬儀屋の話とは大違い、通夜を上回る会葬者となり、わざわざお参り下さった多くの先輩に大変ご迷惑をお掛けし申し訳ない次第である。

山下武男兄とうみどり会々長松井操様の弔辞に続き、53期生が霊前に整列し、野崎兄の号令で、海軍機関学校校歌を斉唱した。参列の先輩・後輩も合唱し、歌声は斎場に響き渡った。

かつての軍歌演習のようにありったけの声を出して歌った。胸が詰まった。声がかすれた。貰い泣きをする婦人もおられた。彼を送る最後で、最高のプレゼントであった。僧侶も「私のお経よりずっとずっとよい供養です、感動しました」と、感想を述べていた。

会葬御礼のご挨拶をした長女成子さんは

「私達が抱いている父の印象は、皆様が呼び慣れておられるライオンのように猛々しくはなく、感受性が強く、涙脆い、子供にも、孫達にも大変優しい好々爺でした」

と結ばれた。彼の優しい一面を知って、微笑ましい思いがする。

旧海軍の軍艦旗に似た自衛艦旗に覆われた棺は、期友に担がれ、霊柩車に納められた。

お骨上げ、初7日の法要を併せ行い、青磁の骨壷に納められた森山兄の遺骨は、清子夫人の胸にしっかりと抱かれ、夕日に赤く照らされ、暮れなずむ湘南街道を、一路自宅に向かった。合掌

(なにわ会ニュース71号7頁 平成6年9月掲載)

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