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平成22年5月15日 校正すみ

故森本達郎君を偲ぶ

飯野 伴七


昭和51年6月23日0650期友森本達郎は療養の甲斐なく何者かに引っ張られるようにこの世を去った。

森本と小生は隣同志の会社で毎日の出社の際は一部の道路を共に歩いて21年余になる。今年1月末厳冬の或る日の昼休み三井埠頭会社に彼を尋ねるとその二三日前から右脚の太股の外側が神経痛の為か痛いと洩らした。暖かくなればよくなると医者から言われ本人もそれを信じていた。

2月を過ぎ3月に入ると痛みが増し足を引摺り又苦痛に堪えている様子で同社の64期の中川先輩も「余り無理をせずゆっくり養生しろ」と言っているのだと話していた。3月半ば病状一向に好転せず、体重も減り苦渋の色が濃かった。彼岸にかけて鳥取の家実へ帰り、母に会い墓参を済ませ親孝行して来たと言っていたが、疲れが出て会社へ行かれないと休み出し、そして再び会社へ現われることはなかった。

家で療養中と言うので4月7日夜市瀬と2人で鶴見の自宅に見舞に行った。当日は痩せてはおったが言語動作平常どおりで本人は飲まなかったが薦められるままにウィスキーを飲み、鮨をつまんで2時間余り駄弁り、やはり海の男、兵学校青春の想い出、空母隼鷹での戦闘活躍負傷、同乗の期友の活躍等活き活きと顔を紅潮させて話してくれ、市瀬は目新しいものを記録していた。

 後日、奥様より「あの時はほんとに元気が出て一時ほっとしました」と、長男を通じて連絡があった。これも平常な状態での最後の面会となった。

月17日(土)には痛みが激しく遂に病院行、痛め止注射を打って帰宅後も、薬の為か眠っており、当日見舞に行った国生、出口の2人は話も出来ずじまいであった。明けて18日の日曜を過ぎ、19日には千駄ヶ谷の前田外科病院に入院、闘病生活が始まった。胃の悪性腫瘍なのである。期友で鎌倉佐藤病院長の高橋も心配してくれた。

5月を過ぎ、6月に入ると衰弱が甚だしく、遂に6月23日朝静かに永久に休息の時が来た。大分痩せて闘病に52歳の全生命力を注ぎ込んだのだった。本人の苦闘も家族の看病も大変だったろう。

凡帳面な明るい責任感の強い男であった。

一家の大黒柱を奪われた遺族は勿論、会社にあっても幹部となり、リーダーシップを発揮する時にこの悲報である。邦家の為悔しみても余りあり残念である。

彼とはよく隣り合せた。入校四号時代彼3分隊、小生39分隊で同部であった。小柄な体をよく動かして走り廻っておった。時に協同して、時に競争相手として、訓練隊務に当った。三号時代銃剣術競技で、8人抜きであわや優勝のところ、5級から3級へ2階級特進、体操、水泳は1級、何しろ勘がよかった。(別述4月7日夜談話)卒業後は海上と航空に別れたが、29年より又会社勤務で隣同士となったのである。そこで昼休みに駄弁りに行ったり来たりした。夕方立寄ると一升瓶を中心に囲んで部下の若者を労っており、よく一緒に仲間入りさせて貰った。時に隣同士の麻雀会となり、箱根の山迄も遠征したことがある。叉湘南地区期家族懇親会の世話役として、川崎在住の期友共々計画実行に当った。海が好きで市瀬のヨットに息子と共に同乗、相模湾を乗り廻し、「久方振りで潮気を吸って来た」と潮焼けの顔で笑って話した。隼鷹での足の負傷は相当ひどく、二日二晩大いに苦しんだだが、海は泳がず直に駆逐艦に乗り移れたので快復出来たと語った。

彼の仕事振りは、責任感を基として和を求め、部下を纏めて業績を挙げて行った。隼鷹での足の負傷はハンデであったろうが、口に出すこともなく黙々と励んでおった姿が目に浮ぶ。

終戦後の悶々とした精神的苦悩、一時的には沖仲士もやって奮闘、今日を築いたのである。そして明るさを失わず、海を愛し、ヨットでのスナップ写真の好い男振りを示して、家族に「俺の葬儀写真はこれを使え」と言ったとか・・・その男振りも今は見られない。

 告別式には期友を代表して弔辞を捧げたが、全く胸が締めつけられる思いであった。そしてクラスの絆は遺族に及ぶと述べたのである。

君よ、安んじて眠られんことを。

(追記)

8月8日(日)遺骨は太平洋を望む鎌倉霊園に納骨され、朝夕海を眺めて眠ることとなった。

(なにわ会ニュース35号15頁 昭和51年9月掲載)

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