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平成22年5月15日 校正すみ

叔父・松山匡喬の一年忌によせて

有川貫太郎

 小、中学校時代

父母がやや病弱であったため、小さい頃からなにかと家の面倒をみていた。また、休みは父母の郷里で過ごすことが楽しみで、畑仕事の手伝いをすることも多かった。

勉強は得意だったようだ。中学時代の英語、国漢、数学、歴史の答案が残っている。その中に試験週間の時間割もあり、それに「一番獲得。必死遇進」「我カ興廃ハ此の一戦ニ在リ」などと書込がある。また、4年のときの「試験」という作文で、「一度転んでもたゆまず幾度も立って遂に之を乗り越える者は試験における勝利者であり、また、人生における勝利者である。」

「我々は此の時に及んで試験の真意義を体得し、正当真剣なる態度を以て之に臨み、以て将来に資し国家有用の材たるべきを期さねばならない。」と書いている。軍国主義高揚の時代背景も感ぜられるが、それよりも、ものごとに真剣に取り組む性格がうかがえ、それは結局終生変わることはなかった。

さて、中学校のとき、母フミが授業参観にいったところ、「起立、礼!」の号令をかける級長が我が子だったのでびっくりした、という話しが残っている。

死後にいただいた、当時の担任篠崎五三六(いさむ)先生のお便りの一節。

「匡喬君は二中に入学してから昭和14年卒業まで国漢の授業で顔を合わせ、ことに卒業の学年ではやんちゃ坊の集まりの私の担任クラスの級長として、よくクラスの面倒をみてくれました。」篠崎先生とは戦後もずっと折にふれて交流が続いていた。

この時代の教育のたまものと思うが、歴史の知識も実に豊富だった。私(甥)は小さいころ叔父の畑仕事を手伝ったが、炎天下に長い畝の草を取っていくのはやはりつらいものである。そんな私に叔父はよく歴史の面白話を聞かせて気持ちをまぎらわせてくれた。

源平の合戦とか、南北朝の話しなど、ついひきこまれてつらさを忘れた。歴史の知識がこういうふうに 「ひとに話して聞かせられる」ほどに身についていたのは、当時の教育の良い点だろうと思う。

 兵学校、海軍

なんといっても叔父の人生を大きく決定したのは海軍兵学校である。在学は昭和14年から18年9月。アメリカの日米通商条約破棄通告、日本のインドシナ進出から真珠湾攻撃による日米開戦、その後の太平洋での諸海戦と、まさに海軍はなやかなりし時代であり学校の雰囲気も高揚緊張したものがあったと想像される。またそこでの訓練、教育も厳しいものがあったことだろう。

鍛練努力、不屈、清廉潔白などの叔父の性格は、生来のものがここで最も良い訓練場所を得て完成されたのだろうと思う。

当初、体がそれほど丈夫でなく苦労したようであるが(1年休学している)、その後は鍛えられてかなり丈夫になり、それは結局戦後の農業をしていく上でなによりの力となった。また、あまり会うことはなかったとはいえ、戦後全国に散った旧友のかたがたとの音信はずっと続いていた。兵学校出身のかたがたは戦後いろいろな分野で活躍しておられるが、誰々は自分と同期だったとか一級上だったとか、よく誇らしげに語っていた。

卒業した18年9月は、日本はすでにミッドウェーの大敗北、ガダルカナルの敗戦、山本元帥の戦死などを経て客観的にみて戦局はすでに大きく不利になっていた。世の中はいくら勇ましいことを言っても、兵学校の生徒は、戦局の不利を敏感に感じていただろうから、いよいよ軍務につくときの気持ちは悲壮なものだったことだろう。兵学校同期625名中335名が戦死されている。

記録を見ると、戦艦乗り組みと陸上(呉)勤務の繰返しである。乗り組んだ艦が爆撃を受けるというようなこともあったそうだが、幸い死を免れて終戦を迎えた。階級はたしか中尉から大尉になって終戦と思われる。

あるかたの手紙で「松山大尉」と呼びかけているのが残っている。

 戦後

日本人の誰もがそうであるが、戦後は叔父も人生の大転換を余儀なくされ、おおきな苦労を味わうことになった。

戦後しばらくは軍の復員事務にたずさわり、全国の家族との連絡などにあたったようである。連絡をとった留守家族の住所、地図のメモなどが残っている。

また、艦艇をソ連に引き渡す業務にあたった。そのことを伝えるお便りの一節(死亡をお知らせしたのに対して福岡市 青木和男様より)

「松山さんは・・・昭和二十二年秋、航海長として私共の乗っていた海防艦七十七号に乗って来られ、同艦をナホトカに回航し、ソ連に引き渡す業務を行われました。横須賀から佐世保を経てナホトカに行き、引渡しを終えて横須賀でお別れするまでごく短期間、私は航海士としてお使えしました。松山さんは穏やかな中にも芯の強い正義感に溢れた方とお見受けしました。当時は混沌とした世の中で、旧海軍の艦船の雰囲気も必ずしも整々とはしておりませんでした。海防艦七十七号には、私も含め約半数の乗員は戦後ずっと掃海作業を行ってきた、艦に対する愛着心が強く、ために引渡しの最期を飾りたいと念じておりましたが、回航員として乗って来たばかりの乗員とは多少の違和感がありました。松山航海長のお人柄と正義感とでナホトカでは見事に引渡しを行うことができました。大変なご苦労をされたと思っております。」

さてその任務も終り、この敗戦国でこれからどうやって生きて行くか、大きな思案であったと思われる。かつての先輩や同輩のかたがたと行く末を語りあう日々もあった。(嘗ての上官田崎少佐のお宅にもよくうかがったとのこと)。多くのかたがたがそうしたように、保安隊 (のち自衛隊)に行くことも勧められたようである。しかしその道は選ばず、任を辞し(「復員事務官松山匡喬/願に依り本官を免ずる/昭和二十二年十一月十四日/内閣総理大臣片山哲」という辞令が残っている。

また他に「一等航海士免状」(昭和22108付)を持っていた。

そしてある電気会社に勤務した。

しかしこれで未来が開けるとは思えなかったようである。

また、遠く郷里には途方にくれている母、姉妹もいる。自分はやはり帰らなくてはならない、と帰郷を決意した。

帰郷後もしばらくは農業で身をたてられるか心もとなく、いろいろ試行錯誤があったようである。一時、木炭の販売を試みたこともあるそうだ。そのとき、自転車でどこやらの遠い山道をようやく目的地にたどりつき、ふとポケットを見ると財布がなくなっていることに気づいた。急いでその道を引き返し、無事財布を見つけたと、これは苦労話のひとつとして語っていた。

  

昭和二十三年頃から農業に取り組む。農機具もほとんどなく経験も乏しい。本家やまわりのかたがたのお世話になる部分が大きかったことだろう。

はじめは農耕馬などもそのつど借りなくてはならなかった。しばらくして牛を飼ったが、力、速度で馬には数段劣る。何年後かにようやく馬を得た。(なかなか高価な買い物だったと思われる)。馬が家にきたときは私もうれしかった記憶がある。以後ずっと昭和五十年代まで何代かの馬がよく働いて叔父を助けた。

作物としては主としてさつまいも、菜種。

他にそば、大豆、小麦、米(陸稲) などを栽培した。母と二人でする農業では、なかなか大きな収入は得られなかったと思われる。なんとか収益のよいものをと、いろいろ模索はしていた。成功した農家の紹介記事、NHKの農業番組のメモなどがそれを物語っている。

一時夏みかんの栽培に取り組もうとし、かなり準備も進めたが、これは結局実現しなかった。

昭和四十三年ごろから本格的に取り組んだのが養蚕である。当時日本もようやく豊かになり始め、キモノの売り上げが伸びてきたので養蚕は大いに有望だった。いも畑を桑園にし、屋敷内にかなり大きな養蚕小屋ができた。

「桑新植要領」と題した詳細なメモを作っている。その中に昭和47年度産蚕目標として49000K(前年実績38200K)、前年比128%、とある。一人にしてはもともと相当多い量なのだが、たゆまず「規模拡大」を目指していた。おかげで優秀な成績をあげ、なんどか表彰されている。

養蚕の仕事はなかなか重労働である。普段の桑畑の管理はもとより、上(そう)の前数日はに桑を与えるのを絶やすことができないた夜も眠れない日が続く。この頃の写真を見るとかなりせてる。

しかしこの養蚕もやめるときがきた。中国から安い繭が輸入されるようになり、採算が合わなくなったため、昭和58年、養蚕から撤退。またその頃、母フミの死。

養蚕をやめたことで肉体的な労苦は減少するかと思われたが、「楽」を求めるような叔父ではなかった。もともと一人でこなせる面積ではないのだが、以後は生産の主力をさつまいもに切り替え、相変わらずたくましく働いた。これは平成6年秋にはじめて体の不調を訴えるまで続いた。その前年に(73才)最新型の耕耘(こううん)機を買うなど、生業用甘薯の栽培を軌道に乗せるべく張り切っていた。健康には自信があり、まだ何年でも農業を続けつもりであった。

なお晩年、農業のかたわらマンションの運営にもあたったが、持ち前の凡帳面さで堅実無比の経営を行い、関係するかたがたの厚い信頼を得ていた。

  病と死

平成六年の十月末、折しもさつまいもの取り入れに余念のなかった頃、胃の痛みを訴えて病院を訪れた。ふだんから人一倍がまん強い性格でましてや農繁期、病院に行くとはよほど耐え難い痛みがあったのだろう。診断の結果、詳しい検査が必要とのことで即入院となった。病院は、姉が治療で通っている鹿児島市の東條病院。

病気は膵臓(すいぞう)で、この時点ですでに他の部位にも相当影響が及んでいるとのことであった。

やがて黄症の症状が現れはじめたため、応急の手術を受けた (12月13日、医師会病院にて。この日も手術から目覚めて日記をつけている)。手術の結果、かなり体調の好転が感じられた。1月9日に一応の退院。以後4月まで、一時自宅に帰りまた病院に戻るというパターンが続いた。帰宅したある日、「自宅ですごす喜びにまさるものはない」と記している。

自分が回復することを疑わず、あくまでも生きる望みを抱いていた。病院でお医者さんや看護婦さんたちがロをそろえて驚いていたのは、そのがまん強さである。痛みや苦しみを自分から訴えることは一度もなかったそうだ。「松山さん、どうですか」と尋ねると、きまって「はい、大丈夫ですよ。皆さんには苦労をかけますね」と逆にねぎらわれたということである。

3月末までまだ外出できたが、4月になって寝たきりになった。究明な日記は4月14日まで続けられている。その最後のへージは字がかなり乱れていて痛々しい。

4月21日の午後まで意識はしっかりしており、見舞いのかたがたとも言葉を交わした。午後5時頃、意識の混濁が来て、それから一晩を昏睡状態で過ごした。翌22日午前8時、息をひきとった。人生を真剣に生き抜いた崇高な姿がここにある、と枕許にいて思った。

明け方からかなり激しい雨になっていた。

遺体はその日自宅に戻り、同日通夜。翌23日葬儀。朝まで雨は激しかったが、葬儀の始まる昼頃は不思議に晴れて青空となった。

親戚、知人多数のかたがたが参列し別れを惜しんでくださった。

戒名は「釈慶縁」。父母の墓に眠る。

 ひととなり

叔父を形容しようとすれば、いくつかの言葉が浮かんでくる。真摯(しんし)、誠実、清廉、克己、独立不羈(ふき)など。

倫理感がつよく、良心にもとることは決してしなかったと思う。

信念を持ち、他人の言には簡単には左右されなかった。

経営の成功者と言われる人たちを尊敬していた (その叡知と努力のゆえに)。

生活面では質素で、ぜいたくや楽しみを求めることはなかった。「清貧」という言葉があるが、「清富」をめざしていたと思う。

知識欲旺盛でよく書物を読み、新聞、ラジオ、テレビなどから得た有益なことがらもよく記録した。人との談話も要点をメモしてあることが多い。

凡帳面で、なすべきことに落度がないように心がけていた。

      

平成7年の初夏のある日、天国の一隅でこんな光景があったかもしれない。

父栄次(昭和13年没)、母フミ(昭和59年没)、兄潔(いさぎ、大正9年没)、妹節子 (昭和7年没) などの集まっているところに、匡喬がやってくる。みんなが驚いて迎える。次の会話は標準語になっているが、もちろん鹿児島弁である。節子は生まれてすぐ死んだので、ただ無邪気に聞いている。

栄次「あれ、お前もう来たのか?」

匡喬「はい、思ったより早くなりました。まだまだやり残したことがたくさんあったのですが。でも自分としてはいつも精一杯やっていたので、まあどこで終りになってもよかったのです。」

栄次「俺が早く死んだためにお前には人一倍苦労をかけることになった。なにしろ残ったのはお前のほかは女ばかりになったから。」

潔「僕は君が生まれる前に死んでしまったから、君に長男の役をさせることになって申し訳なかったね。ぼくがいたら、君には世の中で大いにはばたいてもらうことが出来たの」

匡喬「海軍では広い世界も見てきましたし、戦争で人間の生死も見ました。結局郷里で農業業をすることになりましたが、自分に与えられた運命に精一杯生きましたから満足しています。」

栄次「お前には50年祭もしてもらった。もう皆さんに忘れられていると思っていたが、あんなに集まってもらってうれしかった、礼を言うよ。」

フミ「私も最後は15年も看病してもらうことになって、ほんとにすみませんでした。でもずっと住み慣れた家で療養し、そこで死ぬことができて幸せでした。ありがとう。」

(深々と礼をする)

栄次「お前は結婚しなかったが、あとは大丈夫か。」

匡喬「姉上がいますから。いろんなことはかねてからきちんとしておきましたからうまく引き継いでいくでしょう。姉上の息子はちよっとほのなか男ですが、まあ私を見習ってこれからしっかりやると思いますよ。」

フミ 「あとは心配せずに、さあこちらにきてゆっくりしなさい。私たちはもうここで見守っているのが務めなのだから。」

匡喬「はい。」

 

(参考)

松山匡喬の経歴

大正十年十月六日、父松山栄次、母フミの次男として鹿児島市で生まれる。父は知覧町松山出身の県庁獣医。女三人、男二人の五人兄弟。うち二人は幼くして死亡。

実質、姉イソ子、妹敦子との三人兄弟として育った。

昭和9年中州小学校卒業。鹿児島二中に進む。二中は一中に比べて剛直な校風で、比較的軍人の道を選ぶ子弟が多かった。「軍神横山少佐」の出身校でもある。

昭和13年11月、父栄次死亡 (匡喬17才)。

昭和14年、二中卒業(32回生)。同年秋、江田島の海軍兵学校に入学(第71期生)。在学中に病気のため1年休学72期生となる。

18年9月 海軍兵学校卒業

    「伊勢」乗組。通信士。航海士。海兵団。

19年3月 「八雲」乗組。通信士。
  
10 「葛城」乗組。通信士。

20年6月  呉鎮付。

20年9月 予備役編入。復員帰郷。
21年4月 充員召集。佐世保地方復員局補充課。 
     復員事務官2級。

  5月
 駆潜38乗組、航海長。
  10月
 「雄竹」、航海長。
22年1月 輸137航海長
  5月 海77航海長
  7月 海405航海長。第一次ソ連引渡し、ナホトカ回航。  11月 依願免官。新洋電気株式会社入社。

23年2月 同社 退社 帰郷 以後農業に従事

(なにわ会ニュース75号5頁 平成8年9月掲載)

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