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平成22年5月15日 校正すみ

眞鍋正人君の最期

大谷 友之


眞鍋正人君死亡時、連絡網の第一発信者へ通報した者として、連絡の内容が従来のものと多少(おもむき)を異にした点もあったことの事情説明と、知る範囲故人の闘病状況についてご報告をする。

(1)

5月21日のことだった。横浜市立大学医学部附属病院に入院中の眞鍋正人君を見舞った時、四方山話が終った処で、次のようなことを言い出した。

「俺が死んだら身内だけで葬儀納骨を済ませて、すべてが片付き落着いてから、クラスの諸兄には故人の強い希望でお知らせしなかったことのお詫びの連絡をするよう女房や子供には言い付けである。貴様もこのことをよく承知して置いて協力して貰いたい」と眞顔であった。

この考え方は、他人に余計な迷惑を掛けたくないということから出たものであって、基本的には同調出来るにしても、中々難しい「貴様と俺とは、お互いに病気の前科持ちの身障者であり、どちらが先になるかは判らぬことだ。死んでしまえば家族が約束を守って呉れなくても、死人から文句はつけようがないことだし、いずれにしても今直ぐでのことでもない大分先のことだから、よく考えてみょう」とあやふやな返答をして辞去した。

次いで6月5日、前日國神社で行われた参拝クラス会の様子を知らせることも兼ねて病院を訪ねた。前回の見舞の帰り際に、次はクラス会の翌日に来ることを約束していたので待ちかねていた様子だった。

この日は特別ご機嫌が良く、夫人が所用で不在だったこともあり、随分話が弾んだ。一級の身体障害者手帳も見せて貰った。「一級とは大変な重病ではないか」と冗談を言い合う位明るい雰囲気であった。

辞去する間際になって「この前、頼んだことは間違いなくやって呉れよ」と又もや真面目な顔で念を押された。

別れ際に「これからは月に一度位は顔を出して、駄弁りに来るよ」と約来したのだが、これは空手形になってしまった。

それから4日後の6月9日夜9時少し前に眞鍋夫人より遠慮がちながら重大なことを電話で知らされた。「数日前から、主人の病状が急変しており、とうとう予断を許さない状態になった」と。4日前にはあんなに元気で話が出来たのに、将に青天の霹靂、まさかと思ったことが現実になって来た。返答の声も出なかった。

翌10日朝、元気でいて呉れよと祈る気持ちで病院に馳せつけたが手遅れであった。早朝の午前6時38分家族に見守られながら、安らかに永眠されたことを知らされた。

まだまだ当分は元気で、諷刺の利いた独特の論評を聞かせて貰えるものだと信じ切っていたこちらの甘さと楽天性を嘲笑するかのように、忽然と逝ってしまった。

事態が急変した。幸い決断をせねばならなくなった。二度にわたり、今となっては半ば遺言的に聞かされた通り、クラスには何も知らさずに済ますことが出来るかどうかである。半ば本気であり、半ば冗談のように受止めていたことが、現実となってしまった。夫人も悩まれ、私も判断に迷い苦慮した。

迷いに迷い、夫人と二人のお子様と時間を掛けて話し合って得た結論は、眞鍋君の希望は100%守れないが、故人の遺志を盛った死亡通知を改訂されたばかりの連絡網で流すことであった。

通夜・告別式には、彼の死を悼む多くのクラスメイトが会葬し、簡素な中にもすっきりと心の籠った葬送が粛々と行われたのではないかと思っている。祭壇の遺影は「頼み甲斐のない奴だな」と言いながら「これでよかったよ」と言っているようにも見えた。

『海禅院徹空正臣居士』となった眞鍋正人君は、大空の高い所へ昇り、特徴のある温顔で、こちらを見守って呉れているような気がしてならない。時には厳しく、時には優しく、兄貴のような適時、適切な忠告や、独特の人生観に基づく批判や評論は、もう聞けなくなってしまった。

(2)

眞鍋正人君から自分の病気のことを打ち明けられたのは、昨年3月の中ごろ、佐藤病院での受診後、鎌倉駅隣りの喫茶店であった。

「実は問質性肺炎という病気に罷っている。質のよくない病気らしい」という。病気のことはトント知識がないので「どんな病気なのか」と質問した処、店の紙ナプキンに『膠原病』『問質性肺炎』『肺線推症』などの文字をメモして説明して呉れた。よくは理解出来なかったが、肺臓のガス交換能力が著しく低下しており、難病の一つに指定されている難しい病気であるらしいことが判った。

6月の國神社参拝クラス会には、何喰わぬ顔で出席し、創刊時から永年にわたって関与してきた『なにわ会ニュース』の編集委員を辞任する挨拶をした。しかし難病に罷っていることは?(おくび)にも出さずに振舞っていた。この出席は自宅からではなく、検査の為に入院中の病院を抜け出して来たことをあとで知らされた。

病気の性質上、検査や治療の指導を受ける必要があり、検査入院という名目での入退院を繰り返していたようだが、詳しくは聞いていない。

誘いの電話があり、新しい設備の整った病院の見学を兼ねて、横浜市大病院医学部附属病院へ見舞いに行った処、患者は一見極めて元気そうで、今迄と違ったことといえば、小型の酸素ボンベより細いプラスチックのチューブで鼻への酸素の補給をしていること位だった。この時は、まさか一年後に死没することなど考えてもおらず、病院最上階の食堂で歓談して別れた。

昨年末の忘年クラス会には、小型酸素ボンベを引っ張ってやって来た。見た処では、それ程疲れた様子もなかったが、その夜は、そのまま会場のパシフィックホテルに宿泊して用心をしたようである。

葬儀の祭壇の写真は、この時夫人が撮影されたものだそうで、とても病人には見えない温顔である。

年が改たまってすぐ、戦闘機乗りの仲間だった島田茂久、西口譲、藤田昇の三君の死亡が統いたが、病気の為とはいえ思うように動けず、何のお世話も出来ないことを歯痔いがっていた。

2月末に行われた39分隊会は、大変楽しかったようだった。3号の諸君が伍長の健康を気づかって、特別の配慮をして呉れたので、ゆっくり話が出来て楽しい会合であったと、電話口の声は弾んでいた。この外出が結果として、最後の遠出、外泊となったようである。

4月18日のパインなにわ会には、会場が自宅から近いことでもあり、酸素ボンベを引っ張って出席してみたいとも言っていたが、直前の4月10日通院の途次でトラブルが発生し、そのまま入院となってしまい、出席出来なくなった。残念なことだったろう。

(3)

プライバシーについては余り多くを語らず、また、弔詞等で必要以上に美辞麗句を並べたてることを極度に嫌っていた故人の気将を忖度(そんたく)して、多くは記さないが、出身は瀬戸内海の眞鍋島であって、塩飽(しわく)水軍の血が流れているようである。

ご両親共厳格な教育者であり、京都で生れ、成長したと聞いている。小学校は5年から中学校へ飛び級で入学の神童的な少年であったようだ。これも自分から言い出したことではなく、経歴と年齢とに食い違いがあり、問い質した処、白状したので判ったことである。

故人の戦時略歴に601空がある。その時、私はこの601空を搭載する空母の乗組であったが、顔を倉わせる機会はなく、戦後になって、そうだったのかと判った次第である。

戦後の生活は必ずしも安穏・平坦なものではなかったようであるが、努力を重ね持ち前の頑張りと粘りで仕事に精励して実績を挙げ、また、内にあっては夫人と協力して良い家庭を築かれたようである。恒子夫人との縁談は戦死した桜井長君の親父さんの御引き合せによるものだったと聞いた記憶がある。

社会人となってからは、お互いにサラリーマン生活を続けたので、北九州や関東地区で、時には一緒になったり、別れたりであったが、50歳を過ぎてから数年間は職場を同じくするご縁に恵まれ、30年前に空母の乗組員と搭載の戦闘機乗りとして共に闘う運命にあった2人が協力して未経験の事業の推進に邁進した懐かしい想い出がある。

停年退職後、発病する迄の楽しみの一つは海外旅行だったように思う。用事があって電話をしても不在のことが多くなった。あとで連絡してみると、2人で海外旅行に行っていたようだ。初めはツアーに参加しての旅行だったが、馴れて来ると自ら企画、立案して、手づくりの気ままで、とらわれない旅を満喫していたようであった。

昭和58年2月、高橋猛典医師の執刀で胃癌の手術を受けた。5年後のお祝いの宴では、医師、患者共満足げであり、楽しい会合であった。しかし2人共予想もしなかった事で故人になってしまった。寂しい限りである。

考えようによっては、戦時中は25歳迄生きていれば御の字だと真面目に覚悟していたのだが、その3倍も生き延びたのだから、感謝すべきかとも思う。しかし、親しい友人が櫛の歯を挽くように去って行くのは、本当に寂しい。

眞鍋正人君と交した葬儀についての約束を充分実行出来なかったことを告白して詫びると共に、経緯を期友諸兄にご報告をする。

ここまで生き延びたのだから、お互いに元気を出して長生きしようではないか。

(平成10年6月末日)

(なにわ会ニュース79号13頁 平成10年9月掲載)

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