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平成22年4月29日 校正すみ

草鹿校長の御逝去

高橋 猛典

草鹿中将が兵学校校長として江田島に着任されたのは、私が四号生徒から三号になったばかりの昭和16年4月のことでした。そして昭和17年9月までの1年有半の間、厳格の中にも実に人間味の溢れた暖かい、気どりのない、生徒と一体となった校長としての忘れ得ない太平洋戦争中の生徒として、教育、ご指導を頂きました。が、昭和1710月南東方面艦隊司令長官として第一線に出られる日、われわれ生徒に最後の訓示をされた、あの立派なお姿に、戦敗れ、再びお目にかかれようとは、夢にも思わなかったことでした。

それも如何に親しみ深い校長であられでも、校長と先徒という絶対の隔たりのあった方に、今度は患者と主治医という立場でお目にかかろうとは、まさに夢のようなめぐり合わせでした。私は戦後郷里仙台の東北大学医学部に学び、外科医となりましたが、縁あって鎌倉の病院に勤務するようになりました。それから間もなくの頃(昭和30年)から、校長は患者として私共の病院に見えるようになりました。それから昭和47年8月24日、私共の病院で亡くなられるまで17年間、偉大な尊敬する大先輩としておつき合い頂いたばかりでなく、前にも申した通り、患者と主治医という思いがけぬ立場で、遂に校長の最期をみとるという大役を勤めさせて頂いた関係で、今草鹿提督伝記編さんに当たって、追悼の記を書かせて頂く、光栄に浴した次第であります。

お若い頃から余りお文夫でなかった校長は、初め胃弱を主訴として来院され、胃液検査のゴム管をのまされては閉口しておられました。しかし検査の結果安心されると持前の大食漢ぶりを発揮しておられたようでした。その後時々健康診断の為来院しておられましたが、昭和32年、たまたま水虫が悪化して治療に見えた時、左足の裏に胡桃(くるみ)の実大の黒い瘤状のものを発見、悪性腫瘍の疑が強かったため直ちに精密検査の結果、最も悪性度の強い黒色肉腫と診断、瘤を切除すると共に、当時わが国でも漸く使用され始めた、放射性同位元素コパルト60の照射装置が、私どもの病院にも設置されたばかりであったので、これ等を併用して治療した結果、校長は幸運にも癌を克服ざれました。

その後も経過観察のため、あるいは老人性結核もあって、定期的に病院に見えておられました。校長はいつも若者の如く意気さかんで、かくしゃくとしておられ、戦後の日本国民の精神的退廃を嘆いては、俺は120才までは絶対に生きる、そして日本人の精神復興に努力するんだと意気まいておられました。私が、そのためには私のいうことをもっと聞いて、お体を大切にして下さいとお願いすると、その度に「よしよし、言うことを聞くよ、ちゃんと聞いているだろう。わしは元気だぞ」とご自分を元気付けるようにおっしゃってはお帰りになりました。しかし、帰られると毎日のように東京はおろか、全国をとび回っておられたようでした。このようにお元気な校長も、数年前から少し老化現象を示しておられ、45年念願のラバウルでの慰霊祭にお出かけの直前には不整脈と腰痛に悩まされ、出発も諦めかけておられました。しかし入院治療の甲斐あって出発2日前になって、這っておられた腰痛もピタリと治り、心臓の方も大体落着かれ、周囲の方がたの心配をふり切って、勇躍ご出発、約3週間にわたる南方のご旅行を無事終えてお帰りになった時には、私もほっと安堵の胸をさすったものでした。

それに自信を得られてか、翌年も再度ガダルカナルまで足を伸ばされましたが、この時はお帰りになったお顔はすっかりむくみ、手足の皮がすっかりむけて、拝見した私もずいぶん気をもんだのです。それもまたすっかりお元気になられて、定期的の来院時には例の通りの気焔を吐いてお帰りになっていましたが、その頃から老化の症状は少しずつ進んでいたようです。

昭和47年6月4日の「なにわ会」慰霊祭にご出席下さったお帰りにも気分が悪くなり、お供したクラスの者が心配したとのことでしたが。その後病院に見えた校長は割合にお元気で、検査の結果等にも余りお変りはありませんでしたが、やはりお疲れが見受けられたので、私も油断なく,また、遠慮なく意見を申上げていたのです。

8月12日のことでした。いつものように病院に見えられましたが、ご自分から、近いうちに一度入院して精密検査と必要な治療を受けたいと仰せられました。私も、それは結構なことですから一日も早く入院なさるようおすすめしたところ、8月15日の東京武道館での慰霊祭だけにはどうしても出席しなくては、と例の通り言われるので、それだけは致し方ないでしょう。その代り、その他の一切のことは全部お止めになって、15日のことが終わり次第、入院して下さるようお願いした結果「18日に入院する」という約束になってお帰りになりました。 

そして一週間たった18日、約束通り入院のためお見えになった時の校長は、一週間前とは見違えるばかりお疲れが目立ち、しかも少しぼんやりして、お話もなかなかに口から出ないような状態でした。私もびっくりして早速入院していただきましたが、当時はそれ程心配した状態ではなく、一晩ゆっくりと静養いただければ、またある程度元気を回復されると考え、一夜を涼しい病室でおやすみいただきました。翌日になると予想に反してぼけた状態がさらに進んで来るご様子が見えるので、これはいよいよ脳軟化症の危険が強いと考え、早速その治療に全力をあげました。数日は格別のお変わりもなく、また余り好転する徴候もなく、長期戦の覚悟を固めていたところ、22日午前3時頃、突然激しいけいれん発作を起こされ、私も直ちにかけつけたところ、明らかに脳塞栓(血栓)の症状を示しておられ、すでに昏睡状態に陥っておられました。当時非常に危険が切迫しているご状態でしたが、その後は急変の症状はなく、ただ40度を超える高熱が続き、昏睡状態も回復せず、一刻も早く意識の回復されるよう努力したのですが、遂に意識を回復されず、続く高熱のため24日になって心臓衰弱の症状が進み、同日午後7時20分、何のお苦しみもなく、眠るが如く大往生を遂げられました。

結局脳塞栓による右側広範囲の脳軟化症を起こされたためと考えています。前記の如く以前から動脈硬化症状があり、校長ご自身の自信とはうらはらに、老化症状は進んでおり、天寿を全うされたと申上げる外ありません。旺盛な精神力でお元気に任せた余り、ずい分無理をなさったことがご寿命を縮めたこともありましょうが、校長はご自分のなさりたいこと、しなければならないことを最後までおやりになったので、ご本望だったことと推察しております。

以上草鹿校長のご病状の経過ですが、約20年にわたって親しくご交際をいただき、また主治医として未熟な私に全幅の信頼を寄せて下さった校長を、もう一度元気にして差上げられなかった私は、心から申訳なく、微力を悔いるのです。また尊敬する校長を最後まで看取るという光栄に恵まれた私は幸せだとも思っております。

20年にわたるおつき合いの間に、患者と医師という関係を別にして、数多くの想い出があります。校長のあの一見好々爺然とした風貌の、そして、われわれに「戦に強い軍人になることが一番大事なのだ」と諭され、ラバウルの司令長官として見事にそれを実証された最も武人らしい武人、そういうお人柄のかげには、兵学校生徒の精神教育に西田哲学を導入されたり、或はトルストイ等ロシア文学をも口にされたり、又禅に傾倒され、戦後は教育勅語を基にした日本人の精神復興に尽力される等、古今東西の学を身につけられ、奔放かつ達な、海軍軍人がそこで生き、そこで死ぬことを願った、あの広い海のような本当の自由人としての豊かなお人柄があり、私はいつも心から敬服していたのです。今ここで私に与えられた任務は、偉大な提督の最後を皆様にお伝えし、後世に遺すことにあると考え、それのみに止めさせて頂きます。

今、草鹿提督、草鹿校長の御冥福を祈りながら、この稿のペンを採る私の眼の前には、あのにこやかな校長のお顔が、そしてあの最後まで日本の将来を心配しておられた火のような情熱が、そのまま42度にも達する高熱となり、ぐっとお口をくいしぼり、固く瞼を閉じてそれに耐えておられたあの立派な大きな、提督のおつむりがあります。

(なにわ会ニュース27号4頁 昭和47年9月掲載)

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