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弔  辞

謹んで草鹿校長の御霊に申し上げます。

 校長が兵学校に着任されたのは、たしか昭和164月の事であったと思います。当時70期が1号になったばかり、71期が2号、72期が3号、73期はまだ入校前でありました。それ以来、昭和1710月、第11航空艦隊長官として第一線に出られるまでの、開戦の前後を通じて1年半の間、兵学校長として、70期から73期までの4クラスを指導していただきました。

 草鹿校長は、少しも気どらない、ありのままの姿で生徒を引っ張って行かれました。私共が一番印象に残っておりますのは、着任に際しての校長訓示であります。校長訓示といえば、従来は精神的、抽象的なお話が多かったのですが、草鹿校長は開口一番「君達は何のために兵学校で勉強しているのか」という所謂対話調で話を始められました。いろいろ威勢の良い意見が出た後に、校長は一言「戦に強い軍人を作ることである。」と言われました。風雲急を告げる当時の情勢において、私の目標はこの一言に尽きると思います。これを基本方針として、現実的な教育が行われました。

 校長は一面真に暖か味のある人間味の溢れた方でありました。「生徒に示す」という歌を作られて、分り易く生徒の心掛けを教えられましたが、これはたしか71期の佐波君の作曲がつけられ、皆良く歌ったものでした。

 軍規厳正な当時の兵学校において、校長といえば雲の上の人でありましたが、私共は陰では「任ちゃん」の愛称で校長を身近な方と感じて居りましたのも、校長の人徳によるものと思います。

 第11航空艦隊長官から南東方面艦隊長官を兼務せられ、文字どおり第一線のラバウルの守りを固められた折には、私共教え子の多数が、部下として直接指揮を仰いだほか、ラバウルに立ち寄った教え子達を暖かく歓迎され、激励していただきました。校長として卒業式を行われた唯一のクラスである70期のクラスヘッドの平柳君が、駆逐艦「文月」の砲術長としてカビエン沖の対空戦闘で負傷しラバウルの病院に入院後、校長に見とられて息を引き取ったと聞いておりますのも、まことにご縁が深かったものと思います。

 戦後は、方向を失った私共の為に親身になって相談相手になって頂き、クラス会には必ず出席して励ましの言葉をいただいたことが、あの苦しい時期にどれだけ力になったかわかりません。就職のおお世話までして頂いた者も少なくなく、本当に有り難く感謝しております。

私共4クラスのものも齢50歳前後となり、やっと社会の為にもいくらかお役に立ちかけて来た時に、草鹿校長を失う事はまことに残念でありますが、私共は校長の教えを守り校長のご遺志を体してさらに頑張って行くつもりであります。どうか、草鹿校長には安らかに私共の前途を見守って頂きたいと思います。

 謹んで゙ご冥福をお祈り致します。

昭和47年8月27

  海軍兵学校第70717273期代表  武田 光雄

 

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