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平成22年5月6日 校正すみ

香西宣良君を偲ぶ

加藤 孝二

3月26日(木)昼過ぎ市瀬から香西の計報があった。3月25日2258死去である。

暫時呆然、続いて泉からも電話が入る。葬儀は27日正午からとのこと、新大阪で東條か石井に電話すれば何とかなるだろうと石井に深夜電話を入れたが、思いが先にたって酒を飲んだが寝つきは悪かった。

年度末の金曜、しかも突然だったが東條と石井晃、伊吹が色々手配していてくれた。火葬場で遺族の方と故人の兵学校入校以前、在学中、戦後の事を語りあっていたら、伊吹が駆けつけて来た。失礼しょうとした3人(東條は会社へ戻った)は引きとめられて香西家迄遺骨のお伴をした。紺碧の空に垂直に昇る煙はむなしかった。

トンボ帰りの新幹線で独り追想にふけった。昨年の兵学校同窓会で富山から出てきた一号同分隊の高松に会った時のことである。彼は例の早口で言った。

「加藤君、君に苦言を呈する。君は香西君とやったろう、あれはいかんよ、僕は雪国育ちだ。雪国育ちは耐え忍ぶと言う事を体で知っとるんだ。耐えると言う事を君に呈する。」

「分った、分った、いやどうも有難う 有難う」

高松の「君」「僕」には驚いたが、彼の気持は有難かった。何しろ20年以後時効というのに昭和18年の事を55年になって言うのだから彼の耐え忍んだ末の忠告には37年の年期が入っている。その気持ちが嬉しいネ、それに正に核心をついている。素直に清々しい気拝で承った。と同時にその後の顛末を知らない高松に長い間心配をかけた事を申し訳なく思った。又気にかけ乍ら何も言わなかった高松の同類が、若し戦死した50分隊の一号にいたら誠に申し訳なかったと思った。航空隊に行った者は事の顛末を知っている筈だが、艦に行った者は知らないかも知れぬ、香西はあの世のクラスに、俺は現世のクラスに手分けして謝るより他はない。

何が原因か確たる憶えはないが、とにかく夏休暇の前に自習室のアームラック(小銃架台)の前で香西と撲り合いをやったことがある。自習時間の中休に議論から口論、パンチの応酬となったが下級生が入室して来たので2人共パット止めた。だから一分間位だったろう。意見は異なったが下級生の前で上級生が撲り合いをしてはならんと言う事では二人の反射神経は一致した。後半の自習時間が終ると戦闘再開する気持ちは共になくなってしまった。然しテレクササもあり必要以外口をきかなくなった。

夏休暇が終ると卒業は眼の前である。彼は水上艦艇組、小生は航空隊行きである。このまま、お互いに死に別れたら後味が悪くてやり切れんと俺は思った。彼も同様だったらしい。卒業の前、一号総員が夜、八方園神社に参拝した後、赤煉瓦への石段の所で

「オイ 香西」 「オー加藤」 夜のとばりの降りた中で香西と俺は両手を握り合った。握り合った拳を振り乍ら「お互いにしっかりやろうな」「貴様も、元気でな」 と同じ様な事を言い合った。彼のひっこんだ眼は庭園の裸電球の光に輝いていた。それでおしまい。今から思うと他愛のない少年の喧嘩の様にもとれるが、その時は真剣な気持だった。

20年正月、比島から木更津基地に移り、家へ帰った時、母から「香西さんと言う方が見えて『クラスの者です。加藤君は元気でやっていますか』と言われて、元気ですと言ったら『よろしく』と言ってすぐ帰られたよ」と言われた。お互いに消息は不明で、不在の事は分っているのだから、俺が戦死していたら線香でも上げるつもりで来てくれたらしい、彼らしいや、と思いながら八方園の夜のことを懐しく思い浮べたことがある。今から思うと彼が母島進出の時だったかとも思う。

年賀状の交換だけだったが、ニュース35号で51年3月、病後の彼がクラス会に出席したことを知り、52年の江田島クラス会の帰りに江田島羊羹と一緒に彼を訪ねた。地理不案内の小生は電話連絡で彼の指示した私鉄の駅近くのレストランで会合した。ビールをやりながら楽しみに待っていた小生の前に現れた彼は、今日抜歯したばかりとかで口中血だらけ、止むなくビールと牛乳で戦後初会合の乾盃をした。飲み食いは止めてお互に戦後のブランクを埋めようと話し会った。ニュースはよく読んでいてくれて、編集をやっていた小生の忘れていた事迄話題になった。責任感と意地もあって回復期に無理した事も知った。抜歯したばかりの彼の発声はききにくかったが、眼の輝きは八方園の時と変らなかった。

「貴様、身体が一番だぜ、今度は歯が入っている時会おうや」

「今日はあいにくで残念だった、済まんなァ」

八方園の時の様に暗くなった駅で握手して別れた。彼の握力は昔より弱かった。

彼は戦後、伊藤忠にいたらしいが過労で倒れ、病を得てからクラス会には余り出ていない。左近允が司令官の時の練習艦隊大阪寄港の折に伊吹からすすめられて出席したのみである。自ら意識してクラス会に出なかった感がある。

巡洋艦木曽で一緒だった泉が三田に帰省した折訪ねたらしい。「住所も知らさんなんて水臭いことするな、と泉さんに言われました」と悲しみの中にも嬉しげに千秋夫人は回想された。腸潰瘍(かいよう)で大手術、漸く生を得て、人工肛門をつけていたが、台風の日に宿直で屋根に上り、落ちて腰を打って又痛め、健康に恵まれなかったのは何とも残念である。

長兄のお話によれば、香西家の先祖は香川県の海賊で豊臣方に加担した為、庄屋になった由、父君は呉の魚雷関係の仕事をされた。

彼は男兄弟四人末妹一人の三男である。厳格な躾をされた父君から、長男、次男(戦死)、三男と共に呉一中の五年、三年、一年の時、三人並べて制裁を受けた。一年生の彼は、「お父さん、何で撲るんですか、理由を言って下さい」と言ったとか。「地震、雷、火事、親爺」が掛値なく通用した時代に抗議したのには叱った父君は勿論、叱られた長兄、次兄が共に驚いたとのことである。三号生徒には手荒くやさしい一号、卒業前の配置希望にクラスの大半が潜水艦と飛行機と言うのに彼は魚雷艇一本槍だったのは父君が魚雷関係だったからであろうか、独立指揮官たる最短距離だからであろうか・・・。

海賊の血とやさしさ、反骨と頑固が同居していた様な気がする。

テレビにクラスの誰かが放映されると、あれはクラスの誰々だと嬉しそうに話をした由「ネービー」を心の底に秘め乍ら、クラス会に心して出なかった地味で頑固な男を想うと何とも言えぬ感慨につつまれる。

千秋夫人と三人の御子様に温く見守られて逝った香西宣良よ、心から冥福を祈る。

飯沢、品川に逝かれた時はショックだった。二号の時、品川と同じく50分隊だった鬼山隆三は昨年の慰霊祭に九州の遺族の方と一緒に元気になった姿を見せてくれたのに・・・。

これからは世の習いで残ったクラスとの別離が多くなるだろう。別離の悲しみは悲しみとして、故人を偲び、お互いにクラスの生き様を食慾に吸収して生き抜いて行こうと自分自身に言いきかせている。

その順番は分らぬが、現世の別離の時がくる迄。

(なにわ会ニュース45号6頁 昭和56年9月掲載)

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