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平成22年5月6日 校正すみ

河野俊通君への弔辞

石井 

河野君 貴様とはほんとうに永いつきあいだった。
風雲ただならぬ、昭利15年12月1日、我々は72期生徒として晴れて江田島海軍兵学校に入校した。 

 勉学と猛訓練に明け暮れた1年後の昭和16年12月8日、太平洋戦争に突入、69期、70期、71期の先輩クラスに続き、我々72期625名が卒業したのは、昭和18午9月だった。 

 飛行機と艦船に約半数ずつ分れたが、貴様も俺も希望どおり飛行機組に編入され、卒業と同時に41期飛行学生となって霞ケ浦海軍航空隊へ直行。翌19年3月には、そこでの練習機教程を終え、41期飛行学生の約半数か戦闘機専修学生として、神ノ池海軍航空隊に入隊したが、貴様も俺も希望通りその中にいた。 
 あこがれの零戦を前に、お互い顔を見合せ、武者振いした当時のことは今も忘れることができない。

 劣勢おおうべくもなくなっていた昭和19年7月末、零戦教程を終へた俺たち149名は眦(まなじり)を決して、内外の各航空基地へと飛び立った。 

 貴様はクラス6名と共に元山航空隊へ赴作、その後203空、戦闘303飛行隊員として熾烈な航空戦に従事、最後は鹿児島鴨池基地で終戦を迎えた。 

 飛行学生卒業後丸1年の問に、我が72期の戦闘機乗りはその約7割が散華した。 

 戦後、昭和26年、貴様と大阪で再会、当時貴様は栗田工業で水処理関係の仕事をしていた。お互い生きることに精一杯で他を顧る余裕もなかったが、時どきのクうス会ての貴様は、すてに精気と異才を放っていた。

 昭利32年9月栗田工業を退職した貴様はその年の秋、東西工業を設立、企業経営者としての第一歩を踏みだした。 

 クラスの中でも際だって強烈な個性をもつ貴様は社員に対すると同様、自分にも徹底して厳しかった。 

「会社は小なりとも技術は常に世界のトップレベル」をモットーに奮闘。順調に業績を伸ばし、遂に今日の東西ゲループを築き上げた。大変な勉強家だった貴様は特に経済関係の雑誌、書籍を次々と読破し、会社経営の参考にしていた。 

 貴様は、また、たいへん世話好きだった。零戦搭乗員会開西支部長として昭和61年から6年間、会の親睦と発展のために物心両面で尽力してくれた。 

 昨年立派な岡山工場を完成させた時、貴様は俺に「これで近江八幡、草津、宇都宮、岡山と四工場を完成させた、あとは中央研究所をつくることや。中研を作ることが俺の最後の念願で最後の仕事や。これが完成すれば、俺は即第一線を退く。もう少々のことではヒクともしない会社になった。あとは若い者が好きにやればいいんや」と、元気に抱負を語ってくれた。 

 なのに、貴様は本年2月突如体調を崩した。いろんな検査を受けた後、眞実を知りたいと担当医に要求、肺がんを告知され、3月7日、羽曳野病院へ人院、以後8月にわたる癌との戦いが始まった。 

 折々見舞った時、「俺は現代医学最高の癌治療を受けている。絶対に戦いに負けんから心配せんでくれ。」とわりに元気だった貴様を見て、一日も早い全快を祈っておった。 

 癌治療のすべてを終へて8月1日退院したが、ほどなくして今度は膠原病を併発、9月1日再入院した。暫く見舞いを控へていたが、9月14日ご子息から「親爺が会いたがっている」という連絡を受け、病院へ飛んでいった。寝たきりだったが、思ったより元気そうで、俺はほっとした。 

 例のごとく、東西グループ各社の話からはじまって、よもやま話を約1時間、最後に貴様が「永いことお世話になったなあー」その後「ありがとう」を何度もくり返した。俺はびっくりした。 

 まさかあの豪気な貴様の口から「ありがとう」なんて言葉か出てくるとは夢にも思わなかった。傍らの奥様もさすがに顔を伏せたおられた。 

 俺は「何を言っているのだ、早く元気になってくれ、又来るからな」と言い残し部屋を飛び出した。 

 これが最期の別れになろうとは知る由もなかった。10月4日奥様から容態急変の報らせがあり、病院へかけつけたが残念ながらすでに集中治療室の中だった。二度と言葉を交わすことなく、そしてまた入院以来一日も傍を離れず献身的な看病をなされた奥様、ご子息たちの願いも空しく壮絶な戦いを終へ、10月8目午前1時55分遂に散ってしまった。 

 無念としか言い様がない。亡くなった後、奥様にみせてもらった貴様の闘病記録、それは入院以来一日も欠かさず克明に書きつづった癌治療に対するさまざまな所見であり、ある時には図解入りで記されていた。 

 更にまた亡くなる2週間前より痛みをこらえ、だんだんと不自由になる手を庇(かば)いながら書きつづけた。いや書きなぐった数十牧の遺稿。人生を顧みたその一文字、一文字に、俺は感きわまり涙をこらへることが出来なかった。想えば貴様とはよく議論をした。そしていく度となく衝突もした。 

 しかし、自分に対して徹底的に厳しく、一切の妥協を許さず、常に真実のみを語りつづけた貴様は本当に素晴らしい男だった。 

 今、目を閉じると貴様が酔うとよく歌っていた「浪速恋しぐれ」の一節が静かに聞こえてくる。海軍を愛し、零戦を愛しつづけた河野君、本当に永い間御苦労様でした。 

どうか、ゆっくりお休み下さい。  さようなら   

          平成8年11月11日

(なにわ会ニュース76号6頁 平成9年3月掲載)

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