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紺野校長の人間像

伴 正一

 紺野さんがなくなった、という知らせを受けたとき、巨星墜つ、という感じではなかった。確か三年ほど前練習艦の鹿取が浴恩会のメンバーや家族を乗せて晴海から森須賀についたあと、紺野校長の姿を見かけ、話しかけようとして話しかけそびれた時のこと、一人で誰とも話し合う気配なく健康な足どりで歩いておられた姿がまず最初に心に浮んだ。紺野校長を囲む会がそれから一年くらいして催されたとき、何かの事情で馳せ参じ得なかったことが、その次に脳裏をかすめた。

横須賀の埠頭で拝見した姿が私にとっては紺野さんの見納めになったのである。あの時私から話しかけてせめて駅まで、何故ご一緒しなかったのか、それよりも、どうしてもっとお宅に伺って懐旧談などをして楽しいひと時を持たなかったのか、紺野さんのなくなった知らせの瞬間、そういうことがほのかに悔まれたのであった。それから紺野さんの人問像が、生前におけるよりも却って強い力で私を惹きつけるようになった。

同時代の生徒、練習生、補修学生(二年現役)にとって紺野校長の講評並びに訓示は、厳しさに包まれた当時の空気の中で、心を和ませる不思議な魅力を持っていた。それが始まるのを何かしら待っているという心理があつた。別にその内容が特に当時の若者を感動させたという訳ではない。いうなれば紋切型

の内容であって、誰が校長になっても通常言いそうなことの域は出ていなかった。恐らくどれも教官の誰かが起案して決裁されたものを読み上げたに過ぎないと思われる。われわれ三十三期が卒業する前校長の特別講話なるものがあった。その時は放談タイブになって人間紺野逸弥の味の出番ともいうべき場であつたが、前半はやはりしっかりやれということを紋切型に言われ、後半でも記憶に残っていることは健康が大事である。そのバロメーターは糞の出方であって、スポッスポッと飛び出すようであらねばならないというような他愛ないどいえば他愛ないことであった。

東北弁が愛嫡であったことは確かである。軍服を着、大勢が粛然と整列していた場面が興趣を添えたことも間違いない。しかし、その不調和音をもし紺野さんが少しでも意識していたら紺野さんの魅力は成立しなかったに違いない。怖めず 臆せず、まるでそれが標準日本語であるかのような押し出しで、元気のいい〃正調〃東北弁が飛び出してくる。いかがわしいはずの語尾が、「でありましッ」といった調子の思い切った歯切れのよさで音吐朗々と響き亘る。ここまで無頓着が徹底するともう不調和音を飛び越して一つの偉観になつてしまうのである。そういえば、例の棒読みにしてもあまり堂々とやられるとそのまま聴いている方が押し切られてしまうということがあるのかも知れない。とにかく、私のような批判精神旺盛な人間が、紺野さんの話には不思議と抵抗感がなく、あとに微笑ましさと混った清々しささえ残ったのだから妙である。

紺野さんは二年現役をも含めて愛された校長であった。紺野さんの門を叩いてどうこうという人間が多かった訳ではなく、紺野さんの方でも教え子たちの中に入って行って膝を交えて語るということを格別されたようにも思えない。見方によっては孤独でさえあったように思える。紺野さんという人は、そんなこみ入ったことを何もしないでいて、ただその存在だけで世の中を和ませ、清涼の気を送ることのできた人であった。得な人と言えば得な人である。有得な人というものに努力型と天性型とあるとすれば紺野さんはどうやら天性型のようである。努力だけでは、あの紺野さんの味は出てこないような気がする。しかし、持って生れた天性のよさを長い生涯に亘って守り続けるということは、恐らく大変禀禀なことだったに違いない。損得の打算や、そこまで行かなくても、自分を繕う気持などが出てきたら天稟は風化作用を起すはずである。紺野さんにあやかりたい。今まで持ったことのないそんな気持を殉後に味わいながら、私はこの小稿のペンを動かした次第である。

紺野さんは偉大な校長であった。

海軍主計中将紺野逸弥略歴

明治24・3・19  仙台市南鍛冶町古番地で出生
明治45・7・17  海軍経理学校卒業(第一期)
軍艦摂津、出雲、山城、新高、陸奥乗組、横須賀海軍工廠
大正12・11・10 海軍経理学校高等科学生卒業 海軍経理学校教官兼監事
大正11・12・1 主計少佐金剛主計長、経理学校教官、海軍省経理局、軍令部出仕
昭和12・12・1 海軍経理学校教頭
昭和14・11・15 海軍主計少将、舞鶴要港部、舞鎮主計長、燃料廠、軍令部
昭和18・ 6・ 1 海軍経理学校長(終戦まで)
昭和18・11・ 1 海軍主計中将
昭和48・3・25  逝去

(ご遺族)世田谷区奥沢ユー15−1  紺野 作江

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