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平成22年5月6日 校正すみ


わが友小灘利春」と回天

山田 穰

鬼哭啾啾(きこくしゅうしゅう)

この秋は、クラスの友が、従来になく、あの激しい闘いに生き残ったのに関わらず、次ぎ次ぎと病死してしまった。人生50年、死んでいったクラスの人々にとっても決して彼らの人生に欠けるところがあったわけではない。皆さん全員が80の峠にたどりついてからのことである。

日本の福利厚生政策にとかくの問題が云々(うんぬん)されていると言っても、私は私なりに、それらの政策を評価するに(やぶさ)かではない。

平成18年5月1日の国勢調査でのわが国の人口統計は、1億2768万6千人。6月1日の人口統計は1億2775万3千人。念のため。

 お通夜の席のジョーク提言

そこは、小灘君のお通夜のお清めの席で、いささかのアルコールも加わり、参加諸君が故人を偲んでいささかの軽口も叩かれていたころであった。それは、ある意味では、定例のクラス会以上に盛り上がっていた。

「おい。山田。最近顔を見ないが、少しは歩けるようになったか?いま、君の目の前で皆と話をしているところだが、われわれのクラスで、限りなく軍神に近い、と言うのは誰であろうか?もう、この話は誰かの発言によって、中間的な結論が出かかっているようだったが!」

設問に関心を持ったのはS君であり、彼は、十分に洋式エンターテイメントの真骨頂を経験している。しかし、「これは難問だ」瞬間的に私は思った。この答えはともかく、誰が言い出しぺであろうか。

実は、私も最近の話として、まったく同じ設問を用意し自分自身の勉強の資としていたことがあり、何かの縁と言うより不思議な巡り合わせに驚いたものであった。

兵学校の分隊組織のなかにおいて、同一教班に所属すると言うことは、終日顔を会わせ会話の存在が多いことが承認される間柄とすれば(事実もその通りであった)生徒から潜水学校学生まで、なかには、一生、同じクラスであるにかかわらず口も利いたことがない間柄で終わるのに対して、私と小灘とは二号時代のみは関係がなかったが、その他の江田島時代の人間関係では、最高の人間関係を構築できた幸せを痛感した。

海兵二号生徒のとき、私は小灘から直接聞いたことがある。

「おれは、学科では、軍神になれるだけの才能がない。真珠湾奇襲の甲標的に対して(ひど)く感激し、自分の将来を軍神岩佐中佐に置き換えて真剣に岩佐さんに憧憬(どうけい)の念を抱いた。精神人間小灘としては岩佐さんにひけを取らない一流の人間になってみせる。」

こう言う「きざ」な事は、普通言葉にはしない。64期の阿部善次さん。この方は南雲艦隊の初陣の艦爆隊の中隊長で数少ない生き残りの一人であるが、日本人にしては顔面積が広く、見るからに力強いイメージに見える。小灘は確かに、その意味でも己の存在を的確に承知していた。特に沈思端麗、寡黙の人とは小灘に捧げる言葉であると言っても過言ではない。

少し時計をずらして、われわれは18年9月兵学校を卒業し、海軍少尉候補生として八雲に分乗した。八雲の候補生指導官は、61期の海軍教官の経験豊富な方であって、村井喜一少佐であり、現在もなお元気であると聞く。八雲では、私も小灘も一緒の乗組みであった。

戦時下でありわが方の形勢極めて不利ななか、当時の八雲の教育は厳しく、練習艦隊での教育を受けた兵学校最後のクラスと言われていた。村井さんは、候補生は、天皇拝謁後は海軍省人事局の辞令によって奉職が決定し、本格的な戦闘に従事する。規則のなかでは何をやっても宜しいが、戦闘中心でやらない方が、やるよりもよいということがある。海軍専一でことを処すれば、

@ 煙草を吸わないこと

A 酒類を飲まないこと

B 女あそびをしないこと

もちろんこの3か条は、以上各条について相当の肉づけがあり、如何に戦争下であっても村井三原則は守られないものと言う前提で、まじめな顔をして聞いていただけのものであった。もちろんこれが守れれば操行百点であり、限りなく軍神に近くはなる。結局、村井さんもえらいと思うが、黙って静かに村井三原則を聞いていた八雲の候補生も馬鹿ではないが、小灘にいたっては、えらいを通り越してこのような人をなんというのか、わたしのボキャブラリには用意がなく回答は遠慮したい。確かに三原則を守る事の可能性では小灘以外に八雲には人なしというところであった。

私は、阿部さんと小灘とは同じ分類としてみている。確かに、それ時からの小灘の生徒館における態度は大きく変わってきたと思うが、その辺になると私は小灘とは同分隊、同教班ではなかったので詳細についてはよく分からない。

山本連合艦隊司令長官の特攻観について触れてみたい。山本は、南雲第一航空艦隊司令長官以下の艦隊幹部がミドウェイ敗戦のお詫びに山本を訪問したとき、彼は何も言わずに彼らのエクスキュウズを受け入れた。しかし何もしなかったわけではない。彼は、呉工廠水雷部長に対して、甲標的あるいは回天に救命装置を取り付けた特攻兵器について1ヶ月に千台のオーダーで製造が可能かどうかについて真剣に質問があったと言うことを分析すると、緒戦のハワイ空襲時における甲標的の扱いについて、甲標的に対する山本の考え方がある程度見えてくる。それは、西太平洋において、日本が防衛線を突破される怖れが大となったときに九三魚雷の特攻化をシミュレーションの中に組み入れようと考えていたものと思われるものである。最悪の時代において、山本は、西太平洋において大量の回天まがいの兵器か甲標的を集中して使用する隠れた戦術を腹にしていたのではないかと見られている。これも山本らしい戦術論ではないか? 想定使用数量、五千台といわれる。残念ながらガダルの戦局の悪化と本人の戦死によってこの作戦は表面化を見ることがなかった。

 

特攻の基柱

頭脳だけでは、軍神になれるものではない。筆者の乏しい経験では、頭脳的要素のみによって軍神が祭()された事は過去において全くないのではないかと思われる。そのようななかで、筆者は、爆弾三勇士の作り話的な軍神話は論外としても、わが国を、先進国近代日本へ誘導した日露海戦の勝利者東郷元帥を祭祀した東郷神社の存在はもろ手を挙げて賛成してきた。しかし、明治大正の東郷さんと昭和の東郷さんとは比較にならない。

大正末期から昭和の初期にかけて東郷さんは、ときの艦隊派の領袖(りょうしゅう) 加藤寛治大将に(かつ)がれて(あるいはその逆)ワシントン会議に艦隊派有利な会議誘導を指導し、その後の堀軍務局長(海兵32期クラスヘッド)更迭の人事行政の悪弊を残した。

東郷さんは、たとえ、明治大正の時代においては軍神祭祀の動議が起きても、積極的な反対は起きなかったかもしれない。その大きな理由はご本人が生存中には土台無理な事であるから。しかし、元帥府に列せられた後のころからおかしくなった。この段階になると圧倒的に反対が多くなってきた。

その他の軍神として、私が一生を通して、こころから尊敬おくあたわざるのは佐久間艇長と第6号潜水艇乗組み諸士である。人間最後の一瞬において、死の美学を飾る事も難しいが、潜水艦のような気密空間において迫りくる酸素不足の苦しさに(あえ)ぎながら、死の瞬間まで職場をれずに職場を死守しこれを全うすることこそ潜水艦りの真の美学である。

第6号潜水艇の実例は古今東西前例を見ない世界の軍神の最高見本である。

今次大戦において、海軍首脳が、航空特攻を真剣に考えたのは、頼みの綱であった「あ号」作戦に惨敗した直後からであった。

米国駐在武官補佐官・侍従武官についで航空母艦「千代田」艦長になった城英一郎大佐(海兵47期、19年10月25日、比島沖海戦で戦死)は19年6月末、小沢治三郎中将(海兵37期)や大西滝治郎中将(海兵40期)らに、

「最早尋常一様の戦法では敵空母を倒しえない、体当たり攻撃を目的とする特別攻撃隊を編成し、その指揮官に任命されたい」と進言し、特攻攻撃部隊の計画を提出した。

岡村基晴大佐(海兵50期)は19年6月15日、第2航空艦隊司令長官福留繁中将(海40期)につぎのように進言した。

「尋常一様の戦闘方法では現下の航空兵力を生かす道はありません。もはや特攻あるのみ」

澎湃(ほうはい)として()き起こってきた特攻への奔流は、海軍上層部をも動かさずにはおかなかった。当時のことを静かに考えてみよう。

しかし、特攻は統率の外道であり許されるべき戦術ではない。しかし、我等一億の中に澎湃(ほうはい)として起こった魚雷の特攻化は、老人世代のみでも成功しないし、また、若年世代だけでも世に受け入れられない。

軍令部第二部長黒島亀人少将(海兵44期)は、奇想天外な兵器に対してことの他熱心な人物であった。メジュロやクエゼリン環礁に進出してくる敵機動部隊を奇襲撃滅するために、その方策を考えていた黒島の下僚呉工廠潜水艦部員である藤森康雄中佐(海兵56期)は工廠の特四内火艇の図面を見て、「これだ!」と叫んで採用の方向をとりだした。ときに、昭和18年秋であった。

(参照:「特攻と原爆の戦い」鳥巣建之助)

この間、若手の中心 黒木、仁科も回天をもって早く兵器採用を決すべきであると強硬に意見具申を請願していた。世には水中特攻としては、回天のみしかなかったといわれているが、事実は若干異なるようである。
 軍務局の吉松田守中佐(海兵55期)は、特四内火艇派であったが、その兵器としての信頼性に疑問を持ち、回天派のほうへ支持を傾け出した。そして、トラック島大空襲の後、軍務局第一課長山本善雄大佐(海兵47期クラスヘッド)も腹を決め、19年2月26日、呉工廠魚雷実験部にその設計・試作を内示した。

海軍省のこの決断とあい前後して自分の本来の開発は特四号内火艇である事を承知しながら黒島少将は、艦政第二部坂本義鑑技術大佐に人間魚雷の研究・試作を依頼した。そのときは19年1月20日と言われている。

むすび

小灘が死んだ。83歳であった。小灘のことについては、他の回天搭乗員と共に、たくさんの紹介記事が発表されている。いまさらこれらの記事を発表しても余り意味がないので省略する。しかし、2005年8月12日発行の「週刊ポスト」には記事の紹介もさることながら小灘の立派な写真が大写しで出ている。

嘗ては千人のオーダーで会員がいた全国回天会も戦後60年、会の設立以後44年を経て、今では約500名程度の会員であるという。少なくとも小灘は44年間会長職をこつこつとやってきた。えらい男であったの一語以外に私は言葉を知らない。

最後に、私が小灘の追悼記を書いていることを知ったクラスが私に言った。「次のニュースの記事は小灘で埋まるであろう。しかし、ただ一つの彼の欠点を挙げれば、彼と話をしていると肩がこってしょうがない! ?!」と。

小灘死して肩こり治すか。ありがとう!

ご冥福を祈る。

(平成18年11月12日記)

追記

この頃英文で書かれた米海軍の艦別戦闘詳報の和訳が多い。気安く電話で聞くことが出来る達人がいたらと思っていた時、小灘が引き受けてくれた。多少時間はかかったが、彼は気安く引き受けて非常に助かった。しかも、きわめて正確であった。心から、厚く御礼申し上げる。

(なにわ会ニュース96号19頁 平成19年3月掲載)

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