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平成22年5月6日 校正すみ


回天と戦友愛に燃えて
小灘利春元海軍大尉を偲ぶ

上原 光晴

 人間魚雷「回天」。敗色濃い太平洋戦争末期に登場した、必死必殺の特攻兵器である。炸薬量1・55トン。一発でいかなる巨艦をも轟沈させ得る、恐るべき威力をもつ。この兵器に乗り組み、一命にかえて家族を、愛する人々を、国を救おうと若者たちは自ら志願、米艦に体当たりを敢行し、散華した。そのなかの数すくない生き残りの士官であり、回天戦史の集大成につとめてきた小灘利春さんが亡くなった。

 小灘さんは、広島県出身。海軍兵学校72期の元海軍大尉。八丈島基地回天隊長として、出撃待機中に終戦となった。

 戦後、京大水産学科を卒業。日本水産に入社し、ふたたび海に関係のある人生を歩み始める。祖国再建をめざし、緻密な仕事ぶりで業績をあげた。トロール漁船の危険な作業の合間や、毎夜8時、9時を過ぎるハードな陸上勤務のときでも、胸をよぎるのは、いつも回天とその戦友たちのことであった。

 在社中に全国回天会の会長を引き受ける。休日には回天作戦の調査を進めるとともに、亡き戦友の思い出、きびしい訓練、発進まえの表情、奮戦ぶり、戦闘海面の状況、いくつかの種類がある回天の型式、戦闘能力などを集めて、これらの記録を会誌や特攻関係の機関誌に発表、遺族に送る。その周到な調査、戦友愛にみちた筆致は、とりわけ遺族の心を慰めた。

 日水の船舶営業部を最後に定年退職。関連会社に移ってからは、いっそう活動を活発化した。回天基地跡の山口県大津島で毎年行なわれてきた慰霊祭では、開催のために中心的な役割を果たす。回天に関することなら、どこにでも出向いた。

 平成13年8月、元回天隊員たちとともに渡米し、ニュージャージー、シアトル、ハワイの各海軍関係の博物館に足を延ばし、展示されている回天の型式などを検証した。無論、自費である。

  これに先立つ昭和40年8月には、かつての出撃待機基地であった八丈島を、当時の部下7人とともに訪ねている。背丈ほども夏草の生い茂るなか、汗みどろ、切り傷だらけになって探したが回天の姿はなく、やっと頭部だけを見付けることができた。金へン景気のころ、古物商が掘り出して売り払ったのだと、土地の人から聞かされる。 

 戦死者の慰霊と回天の真実を求める行動は生き残った者の勤めだ、と小灘さんは信じていた。もの静かで、生真面目。ハッハッハッと穏やかに笑う。言い訳をしない性格ゆえに、サラリーマンとしては誤解されたり、損な目にも遭ったりしたのではないだろうか。

 兵学校時代から、並外れて誠実、実直な人柄が敬愛される。が、単なる堅物ではなく、最上級生の一号のとき、持ち込み禁止のカメラを堂々と生徒館に持参、生徒の日常を撮影した。それらは、得難い資料となっている。柔軟なものの見かたの出来る人であった。

 また、兵学校時代、別の分隊にいた一期後輩の峯真佐雄さんは、一号に殴られた際、そばで小灘さんが同情にみちた優しい眼差しで見ていたのを覚えている。思いやりの深い人なのである。

 筆者の小灘さんとの出会いは、12〜13年前にさかのぼる。回天の取材のため、鎌倉公民館で初めてお目にかかった。が、どなたの紹介であったか思い出せない。それほど小灘さんの印象は強烈で、ご教示たまわった時間も濃密であった。寡黙でりりしい姿が、眼の奥に焼きついている。

 海中深く潜って隠密裡()に突撃する回天作戦には、戦果の確認ひとつをとっても、今なお知られざる部分が多い。小灘さんは、それら事実の解明に、心血を注いだといっても過言ではない。

 その最大のテーマに、ウルシー環礁での米油槽艦ミシシネワ撃沈がある。この環礁は、西カロリン諸島にあり、米艦隊の一大本拠地であった。この基地を攻撃すべく昭和1910月下旬、連合艦隊司令長官から、回天の特別攻撃作戦命令が出された。

 第1回の攻撃隊は、菊水隊と名づけられ、士官先頭の海軍の伝統にたち、兵科、機関科、予備学生出身者で構成され、伊号潜水艦3隻に分乗して出撃した。

 この3隻は、伊号の363747で、このうち伊37は、敵駆逐艦の爆雷をうけて回天を積んだまま悲壮な最期をとげる。伊36は、事故があって、回天1基だけが発進したものの戦果は確定されていない。積載する全4基の回天が発進出来たのは、伊47だけであった。回天搭乗員は、仁科関夫、福田斉両中尉、佐藤章、渡辺幸三両少尉の四人である。

 その伊47潜による回天作戦について、ある潜水艦長のまとめた戦記に、誤りのあることを小灘さんはつきとめた。

 この戦記は、戦後、日のあさい時期にある雑誌が公募した記録文学特集号に入選したもので、菊水隊に関する戦記の源流であり、ほとんどの回天戦記はこの記述から出ている。

 それによると、敵艦船群から4マイルの距離で発進させたとあるが、こんな近距離では母潜自体が敵に見つかってしまう。実際には12マイル離れた場所から発進させていた。

 これは、小灘さんが「先遣部隊」すなわち第六艦隊(潜水艦隊)の戦闘詳報を探し出し、確認したものである。この戦闘詳報は、菊水隊が帰投後すぐに、艦長たちが司令部に出したもので、記憶が新しいうちにまとめているので、真実そのものといってよい。

 また、この戦記には、大火柱を発見と、敵艦轟沈のように書かれているが、事実は逆で火柱はリーフに乗り上げた2基の回天の無念の自爆であったことも、小灘さんの手で明らかになった。90年代から次第に解禁されてきた米側の戦闘詳報とつきあわせて、確認できたのである。

 間違った説に反証したうえで、小灘さんは「これは戦史の改ざんですよ」。言葉づかいは普段と変わらないが、憤りを抑えかねる表情であった。くだんの潜水艦長周辺の話によると、この人は戦後の混乱のさなかでもあり、確たる資料を持たず、ほとんど記憶をたよりに書いたという。記憶違いということも考えられる。

 さらに、米軍はウルシーで、現地時刻ではなく、日本時刻を採用していたことも小灘さんは突き止めた。この点については、アメリカのウィスコンシン州のプラットビルに住む回天研究家マイク・メアさんから筆者に送られてきた戦闘詳報添付図の欄外にその記述が出ていることでも裏付けられた。

 余談だがマイク・メアさんは、父君がミシシネワの乗組員(無事救助)だったため、カイテンオタクといってもよいほど回天に入れ込み、研究している人物である。

 筆者も在日米海軍司令部を通じ、名著「深く静かに潜航せよ」のエドワード・L・ビーチ氏に問い合わせたところ、ビーチ氏も日本近海で戦った経験から、日本時刻を採用していたことを認めた。

 米海軍は地球規模で作戦を展開していたため、どの時間帯を使うかは、そのつどきめていた。長い間、現地時刻と信じて日本時刻との時差(四十分)をつづってきた戦記は、誤りだったのである。

 次に、だれがミシシネワに命中したかという議論がある。米海軍真珠湾基地内に、回天の最新鋭の4型が展示されていて、説明板に「セキオ・ニシナ(注・仁科関夫‖海兵71期)中尉はミシシネワに命中した」と明記してあるのだが、発進時間の関係から、小灘さんは「ぶつかったのは、どうも佐藤章少尉艇(予備学生出身)ではないか」と、話していた。が、「だれが命中したか、いまさら詮(せん)索する必要はない。全員が力を合わせて突進したのです」とも、言った。

 47潜といえば、天武隊で出撃した際、古川七郎上等兵曹が搭乗して発進した回天が、30分ほど駆逐艦を追いかけていて、その2隻のスクリュー音が同時に消えるとともに爆発音が起こったのを、機関長付でコレスの佐丸幹男中尉が確認している。従って駆逐艦は、轟沈したはずである。が、米側は発表していない。小灘さんは「(駆逐艦ではなく)輸送船かも知れない。輸送船には軍籍がないから、被沈を発表しなかったことも考えられます」と、考え込んでいた。

 小灘さんから頂いた資料は膨大で、大きな段ボール箱からはみ出るほどである。逝去の2カ月前に到着した封書が最後のお手紙で、それには、回天の発進法を図示してあったほか、訓練の際の回天の頭部の解説が細かく書かれてあった。腰の激痛を抑えながらペンをとったことを、後で知った。

 最新の調査結果として、小灘さんは「戦果は判明しているもの撃沈3、撃破(損傷)5」と、控えめな数字をあげている。が、筆者はさきにみた古川上曹の一件からも、戦果は実際にはもっと増えていると推測しているし、小灘さんもそれを否定してはいない。

 このように回天戦史を正しく記録するために、小灘さんは病躯()をおして、渾(こん)身の力を奮った。回天を描いた雑誌の掲載記事、単行本、映画の脚本などを丹念に読み、偏見や謬(びゅう)論を見つけては、訂正するように手紙で要求した。

 それらの記事のなかに、回天搭乗員の言葉として、「日本は負けたほうがいいのだ」と、実態を知らずに一方的に書いたものがある。

 これに対して小灘さんは「負けそうだからこそ特攻が生まれ、自分の生命を弾丸に代えてでも、わが民族を破滅から守ろうとしているのです。だから、こう書いてあるのは事実に反します」と反論し、戦後の片寄った考え方を批判している。

 小灘さんは、同期生6人とともに回天搭乗員に発令された日を振り返り、クラス会誌に次の所感を寄せている。

「サイパン失陥後、何とか敵の進攻をくいとめる手段はないものかと、焦燥感に駆られていた時である。この破天荒な、眼をもった魚雷があれば、一人一艦をほふり、もって戦局を一挙に挽(ばん)回出来るぞと、われわれは快哉(さい)の叫びをあげた」。

 また「大津島の丘に立って、本州の山々を眺めたとき、この美しい山河、美しい民族を滅亡から救うためならば、死ねると、納得しました。死は気にならなくなり、食事はゆっくり味わって食べました。飯とはこんなにうまいものかと思いました」と、語っている。

 戦中から一貫して60余年にわたり、回天戦士の精神を緩みなく、わがうちに持続させてきた。和訳作業だけでも容易でない戦闘詳報の解読。難渋をきわめる調査活動を平常心で乗り越えていく。接する人は、その真摯な姿にうたれた。

 海兵同期生で樹木環境ネットワーク協会理事長の池田武邦工学博士は、弔辞のなかで小灘さんを「生ける軍神」と、讃えた。

 その終生変わることのない活動を、2005年8月号の米誌「ニューズウイーク」でも、顔写真いりで大きく取り上げて紹介している。

 新約聖書に「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」 (ヨハネによる福音書1513節)という一節がある。小灘さんは、この章句を座右の銘としていた。

 平成18年9月23日、肺癌で死去、83歳。

 (編集部)

 上原光晴氏はノンフィクション作家で著書に「『回天』その青春群像」(平成12年翔雲社発行)がある。  

(なにわ会ニュース96号22頁 平成19年3月掲載)

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