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平成22年5月6日 校正すみ


父、小灘 利春

伊藤伸子(三女)

父は、不思議な人だった。30年以上も,ともに生活してこういうことを言うのはおかしく思われるかもしれないが、あまりに清廉潔白で穏やかな父は、世間から遠く離れた不思議な感じがした。

私を含め3人の娘は、おそらく一度も怒られたことがない。読んでいる新聞を覗き込めば、途端に、「読むかい?」と言って、新聞ごとくれる。私が本など読んで、ぐずぐずご飯を食べないでいると、「(都合の)いいときに召し上がれ。」とやさしく促す。おかげで、母が私達を叱る役を一手に負う羽目になり、損な役回りだとこぼしていた。私はなかなか結婚せず、家にずっといたので、母はとても心配していたのだが、一度父に「迷惑かけてすみません。」と言ったときには、「いや、ずっとこのままみんなで暮らしていこう!」と明るく言われて、面食らったこともある。

極端に穏やかであっさりした父だったが、唯一、これだけは譲れないと強く思っていたのが、回天搭乗員の思いを正しく伝えることであった。搭乗員は愛する家族、民族を何とかして守るため、また、たとえ負けるにしても、自分達が戦果を上げることで少しでもよい条件で終戦できるよう、かけがえのない命を捧げたのである。父は、出撃した仲間のその思いを伝えることが、生き残った自分の使命と感じていた。ここ数年、特攻が本やほかの媒体に取り上げられることが多くなった。回天についても、この秋には、映画「出口のない海」が公開になり、「僕たちの戦争」がドラマになった。しかし、製作側の知識不足に加え、搭乗員の思いを汚すような台詞があったりして、回天が技術的にも精神的にも誤って伝えられかねないという危惧を抱いていた父は、反論するため、「何としても生きていなくてはなぁ」と話していた。

活かさん 真実の記録と記憶を

伝えん真の紳士、武士たりし人々の

志を、(おもかげ)  (病床の父のメモ)

語り部として、父が憂慮していたことは、これまで回天について触れた本の多くが、正確さに欠けるということである。「どうしても個人攻撃になってしまうので、公には言いにくいのだが…。」と断って見せてくれた(秘)と記された父のノートによれば、主だった本の多くが、戦果を過大に記したり、あり得ないエピソードで関係者を誹謗(ひぼう)していたりする。特攻が非難された時代の出版であり、編集者が勝手に変えたものもあると聞くが、直接ある著者に何故こんな事実でないことを載せるのか尋ねた時には、「そのほうがうける」が答えだったという(ただし、上原光晴氏の「『回天』その青春群像」については、「回天隊の真実を伝える価値ある出版物」と高く評価している。)父にとって嬉しかったことは、今年メディアジョンから出版された写真集「人間魚雷 回天」が、担当の濱田麻由子氏の頑張りのおかげで大変良い本になったこと。また、没後にはなったが、父のインタビューの載った「特攻 最後の証言(アスペクト社)」は、特攻をよく知らない人にも読みやすい。この11月には父の書いたものを軸に片岡紀明氏がまとめてくださった、「特攻回天戦 ―回天特攻隊隊長の回想―(光人社)」が出版の運びとなった。あと数ヶ月生きていれば、回天で散った搭乗員の方に父自身が報告できたのにと残念に思う。

父は誰に対しても丁寧で誠実で、相手の年齢、性別、肩書きなどには左右されなかった。意識してのことでなく、気づいていないようだった。小さな子にも敬語で話す人だったから、逆に会社では、上司の方などは面白くなかったかもしれない。父は博識な人で、何か質問すると、指折り数えながら、まずこういうこと、次にこういうこと、と、丁寧に4つくらい返事が来るので、家族は「歩く辞書」ならぬ「歩く百科事典」と呼んでいた。質問したほうは、父の答えの二個目までくらいしか聞いてなくて、申し訳なかったと思う。娘3人は残念ながら俗人で、父の謙虚さを受け継がず、私などは、むしろ計算高いほうなので、父に恥じない生き方が出来るか全く心もとない。

池田武邦氏(海軍兵学校72期・同期で、分隊も同じ。氏の設計したハウステンボスへの旅行は貴重な家族の思い出になっている。)が、弔辞のなかで、禁止されているカメラを兵学校に持ち込んでいたというエピソードを紹介して下さったが、そのとおりで、あれだけ真面目なのに案外大胆で、守らなくてよしと判断すると、規制を守らない。ガードレールのなかを歩かず、ぎりぎりのところで車を避けたりするので、家人はひやひやした。

終戦の時、大尉だった父は公職追放となり、受験した九州大学には、旧軍人は一名も取らない、と受験料も返され、やむなくこの年唯一受け入れてくれた京都大学農学部へ進学し、卒業後、水産会社に就職した。以前、「どうして水産会社を選んだの?」と聞くと、「海が好きだから。」と答えたので、なんと単純な人だろうと思っていたが、最近になって、当時は就職難の時代で、実はそこしか受け入れてくれるところがなく、それもトロール船勤務を条件とされていたのだと明かしてくれた。トロール船での操業は、一晩中休みもなく、眠気で一瞬でも気を抜けば、ロープに弾き飛ばされて海に落ちかねないという危険なものだったという。父は亡くなる一年以上前から左眼の視力を失っていたが、そのことも家人には告げず、私たちも介護認定の時に初めて知った。病気にならなければ、一生告げることはなかったのだろうと思う。

実の子にさえ遠慮がちだった父は、社交的とはとてもいえなかったのに、友人には恵まれた。広島高等師範附属中、京都大学の同窓の方とも毎年旅行するお付き合いが続いていたし、河崎春美氏を始めとする回天会の関係者の方々に支えられ、また海軍兵学校7235分隊会では深い絆で結ばれた多くの友を得た。若い世代で直接戦争のことを知らないにもかかわらず、回天のことに心を寄せてくださった方々もあり、隊員が回天に臨んだ心情をこれからの世に正しく伝えてくださるのではないかと心強く感じている。

葬儀の際には、たくさんの方がご参列のみならず火葬場までお見送り下さった。バスに乗れる人数が限られるため、敢えて残って下さった方もあった。これらの戦友の、小灘が灰になるまで見送ってやりたいという熱いお心に接し、ありがたい思いでいっぱいになった。多くを語らなかった父の、本当の思いを分かっていたのは、私たち家族より、むしろ、この方々なのだと思った。

肺がんが見つかり、手術を受けたのは5年前だが、ついこの6月までは、元気に仕事をしていた。しかし、ガンは骨に転移し、その疼痛(とうつう)ゆえ体を休めることがなかなか難しくなり、急速に体力を落としてしまった。強い痛み止めで朦朧(もうろう)としてしまうのを良しとしなかった父は、激しい痛みと戦った。ベッドに腰掛け、うつむいて痛みに耐える父の姿が今も目に浮かぶ。それでも私達と目が合えば、照れたような笑みを浮かべてくれるのだった。痛みを取る目的の放射線治療のため入院したものの、ガンはすでに内臓や手足にも転移しており、退院は難しくなった聴力も視力もほとんど失い、麻痺のため発音も不明瞭となり、自分の意志を伝えるのに苦労するようになっていった。それでも、思考はしっかりしており、コピーで10倍ほどに拡大した回天の映画の批評を読んだり、母を気遣い、親戚宛てのメモを書き付けたりしていた。どこまでいっても前向きで、諦めることをしなかった。

そんなある日、父は、わたしに、ふと漏らした。「大事なものは何か。守らなければいけないのは何か。国か、国土か、民族か。それぞれで大事なものは違うかもしれない。国民一人一人が考えるべきだろう。が、やはり守るべきは、かけがえのない民族でないだろうか。」 父は常々、「特攻でも、愛するものの生命を救うため、自分の命を捨てることが必要だと思った時、初めて死ねる。」と言っていた。国を守るためには戦争もやむなしと主張していた父だが、守るべきものは民族、という父の言葉は、愛するもののためなら命を惜しまないという特攻隊員の思いから導かれたものだろう。とても父らしい気がして、わたしの胸にすとんと落ちた。

9月23日、朝食を食べた父は胸の痛みを訴え、まもなく心停止となり、息を引き取った。急なことで、誰も看取ることができなかった。大好きな、やさしい父と一緒にいられなくなるのは、嫌だった。不器用に、「五省」のままに生きた父。その存在を失ったことは悲しかった。

 

  83歳の父は、回天に乗り込んだ。痛みも取れ、耳も眼もすっかりよくなって、父は正確に操縦する。61年前、その間際まで行きながら、ついに超えることのなかった現世の果てを、父は超えて行く。その先は暗い海ではなく、きっと明るいだろう。戦友たちが、静かに笑って待っているだろう。

 (なにわ会ニュース96号27頁 平成19年3月掲載)

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