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小灘利春君

米書から

 一方、日本人は幻想を抱いていた。1944年夏という遅い時期になっても、少なくとも一般的な国民から見れば日本帝国の大部分は、まだ安泰だと思われていた。重巡・足柄乗組の小灘利春少尉候補生はジャワに寄港するのが楽しみだった。「若いわれわれにとっては、何もかもが初めてでエギゾティックだった」と彼は語った。現地の子供たちが艦隊のお別れパーティで、日本の歌を唄ってくれたこともあった。現地のイタリア料理店で食事をした小灘とほかの足柄の仲間は、オーナーの娘をじろじろと眺めていた。彼らにとっては初めて目にするヨーロッパ人の少女だった。

「私はここでアジアの明るい将来を目にしたと思った。どこも平和に見えた。シンガポールの中国人の多くはわれわれに友好的だった」
 20歳の小灘の父親は、太平洋のある基地の司令だった。彼は医者になりたかったが、43年に兵隊にとられたので(むろん誤り)断念した。
 「日本を守らなければならないことは知っていたから、それなりのことはしたかった」
次の年に足柄と護衛のフネは、アリューシャンの米軍の脅威から守るために北日本に配備替えになった。「危険が増大しつつあると思うようになった」
 候補生仲間と一緒だったガンルームでは「戦後どうなるかといった話は全く出なかった。随分と先のことに思われたからだった」
 太平洋の島からは郵便はこなかったから、彼は父親がどうなるか何も知らなかった。候補生たちはただ当面の仕事を熱心にやった。進級試験のためによく勉強し、日誌をつけていたが、これは分隊長たちが厳しく検閲した。

(士官に進級試験などなかった。日誌の検閲もなかったはず。「勤務録」は副長に提出した記憶がある)。
 艦隊が作戦に出動するのを長いこと待っていたが、ほかにやることはほとんどなかった。小灘と同僚の若い士官の一部は毎晩、艇指揮として内火艇でフネの周囲を哨戒した。最も興奮したのは暗い中で潜水員の頭を発見したと思ったときだったが、大きな海亀であることが分かった。潜望鏡が起こすウエーキを発見したと思ったときも興奮したが、今度はマグロの群れだった。彼らは米英の海軍力を認識したが、泊地で日本海軍が依然として保有している多数の戦艦、巡洋艦、駆逐艦を見ると、別に絶望的な気分になる根拠はないように思われた。
 
「長い苦しい戦いになるだろうということは分かっていたが、アジアの平和と安全のためには戦うだけの価値はあると思われた」
その2(P478-479
 重巡・足柄の小灘や一緒の候補生たちは、日本の大型艦はもはや役に立たなくなったと思ったので潜水艦を希望した。中尉になっていた小灘は大竹の潜水学校で2週間を過ごしたが、突然同期の13人とともに新兵器、回天の要員として転勤を命じられた。彼らは、大津島の訓練基地に着くまで回天のことは何も知らなかった。大津島でようやく回天の秘密を知らされたのである。回天は人間魚雷であり潜水員(?)が操縦する。指揮官たちは、日本本土に接近する敵艦船を撃破して日本の将来を変えるものだと説明した。小灘のグループは興奮した。「これこそ、われわれを喜ばせ興奮させた役割だった」と彼は語った。小灘と同僚たちの嬉しそうな顔の写真は、小灘の言葉が本当であることを示している。
 彼らは21歳だった。「回天は、われわれに戦争の今後を変えて祖国を救う機会を与えてくれたと思った」
 約1375人の搭乗員が訓練を始めたが魚雷が不足していたため、終戦までに訓練を終えたのは150人に過ぎなかった。回天は非常に危険な兵器だったから訓練中に15人が死んだ。一部の者は呼吸に失敗し、あとは岩に衝突し、あるいは荒波の中で失われた。小灘は訓練中の雰囲気について、きわめて緊迫はしていたが、興奮を覚える経験だった」と述べている。彼の隊は194412月に訓練を終えたが、彼は次の隊の訓練のために4ヶ月大津島に残った。そしてフラストレーションを感じていた。「早く任務につきたいからだった」
 一緒に訓練課程で学び、実際に敵に向かって発進した者がどうなったかを知ると、彼のフラストレーションはさらに高まった。吉本健太郎は小灘と同室だった。「特に頭脳明晰というわけではなかったが、実に愉快な男だった。二人は、あらゆることについて何時間も語り合った。戦争と死については除いてだが」 吉本はカロリン諸島の作戦で1220日に発進したが、機械の故障で帰ってきた。彼は1945112日に再び発進したが、以後消息不明である。
 小灘と足柄で一緒だった石川誠三は「忠誠心あつく大胆な性格で、言うことは実に辛らつだった」が、やはり112日にグアム沖で伊58潜から発進した。本土の基地にある回天の搭乗員たちは、彼らがどうなったのか、戦果を挙げたのかどうかは全く分からなかった。アメリカの記録は彼らがほとんど戦果を挙げていないことを示している。
 小灘が困惑したのは、1945年夏には、一緒に訓練を受け、特攻員として白のはちまきをつけるようになっていた14人のうち彼一人が生き残っていることだった。しかし自分の番ももう少しでやってきそうだった。
 小灘は5月に、回天8基の隊長として東京の南140マイルにある八丈島に派遣された、搭乗員たちはあらゆる戦術場面での発進法を訓練し、あまり頼りにならない回天の整備を常に続けていた。小灘は誇らしげに「生涯で最も充実した日々だった」と語っている。

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