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平成22年5月6日 校正すみ

畏友、古前英雄君を悼む

小跡 考三

昭和60年8月20日、兄の死去を知る。

同21日通夜、22日「コマエ写場」社葬として葬儀執行。在広島の級友、佐原 進、日野原幹吾、小生と3名、それぞれ通夜、葬儀に参列す。

葬儀にて、級友として奉呈した弔辞を報告させていただく。

古前君、おい古前君、いくたびこう呼んでも、貴様はもう二度と返事をしてはくれないところへ、行ってしまったんだなあ。

ここに、海軍機関学校第53期級友として、謹んで、貴様のみ霊にお別れの言葉を申しあげます。

先日病床にお見舞をして、「専心療養につとめ、早うに退院して戻れよ、そうして9月15日の海軍機関学校全国同窓会へ、一緒に参会しようぜ」と云ったら、ニッコリ「ウン ウン」と頷いてくれたのに、逝ってしまったんだなあ。

これからが、貴様の本当の人生であるのに、俺達を残して逝ってしまった。俺達の胸は悲しみで張りさけそうだ。

貴様との付合いは、昭和15年12月、舞鶴市の海軍機関学校校庭において、将来、有為な海軍将校となるべきスタートをして以来だから45年になる。特に二号の時は、奇しくも同じ第3分隊で、寝食と勉学を共にし、まさに裸の兄弟の付合いだったなあ。

去る6月22日、東京の東郷神社会館で、卒業後42年ぶりに、当時の三号生徒の設営で、初回の第3分隊会を催し、当時の若い話がはずんだが、中でも古前生徒長の指揮のもとで、総数20ケ分隊の対抗ボート競走で優勝した一件については、参会者すべてが、鮮やかに往時を思い起し、談論一しおであった。

しかしこの席に貴様の顔がみられなかったことを一同残念がっておりました。

昭和18年卒業後、貴様は艦隊勤務、俺は航空隊へと別れ別れになったが、お互い武運に恵まれ、元気で復員し婆婆の生活に戻ることになりました。婆婆の生活はまさに 0″からのスタートで、お互いにきびしかったが、貴様は家業の写場を引継ぎ、真摯(しんし)な努力を続け逐次業容を拡大し、現在の不動の経営体制株式会社コマエ写場を築きあげられました。

今日の大をなされたのは、ご家族のひたむきなご協力、よき従業員に恵まれたことと重大な因はあろうが、俺は「真面目すぎるほどの貴様の性格と行動力」が根源であったと声を大にして云いたい。ひたむきに真面目、時によれば冗談の通じない男かいなと思わせることもあったが、実は、さにあらず、ユーモアも結構解して話してくれもしたが、あの真面目さにはいつも敬服していたものだ。

いつまでも忘れずにいたいと思っています。

立派な後継者も育成され、思い残すことはあるまいが、人生60歳台は、まだはなたれ小憎じゃから、これからまだまだ大いに練磨して人間らしく向上し、世のため、人のために、本当に残念だ。

生者心滅とはいえ、一歳年長の俺が、お別れのことばを述べなければならないなんて、世の無常をうらむや切である。

級友一同に代わり、謹んで弔辞をささげ、ご冥福をお祈りします。

古前英雄君 では、さようなら

昭和60年8月22日

(なにわ会ニュース54号23頁 昭和61年3月掲載)

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