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平成22年5月6日 校正すみ

小島末喜君への弔辞

豊廣  

謹んで小島末喜君の御霊に申し上げます。

 君は年末年始を九州の天降(あも)り日の宮の御社で過すべく出掛けておりましたが、風邪をこじらせて急性肺炎となり12月28日延岡市の県立総合病院に救急入院しました。入院後しばらくは食欲もあり元気でしたが、1月10日あたりから容態があらたまり、14日遂に.不帰の客となりました。昨年12月2日のなにわ会年末クラス会にはいつもと変らぬ元気な顔を見せていましたので、全く突然のことで信じられない気持ちで一杯です。

君は福岡県豊前市の県立筑上中学校から難関を突破して海軍兵学校第72期生となり、昭和18年9月同校を卒業するや、練習艦八雲を経て巡洋艦矢矧乗組となり、マリアナ沖海戦に参加したのち、昭和19年10月佐世保近くの川棚魚雷艇訓練所で編成された第13震洋特別攻撃隊の部隊長となりました。そして1ケ月後の11月には、当時戦雲急を告げるフィリピンに配備すべく内地を出撃しましたが、運悪く乗船のあとらす丸が魔のバシー海峡で敵潜の魚雷を受け沈没しました。君もまた夜の海に投げ出されましたが、幸運にも護衛艦に救助されマニラまで辿りつきました。その後、司令部の命により君は新しい震洋艇を受け取りに内地に飛行機で戻ることになりました一方、生き残った部下隊員はコレヒドール島に陸戦隊として送られることになりました。

間もなくルソン島に敵が侵攻したため、君は部下の待つコレヒドール島に戻ることが出来なくなり、程なく新編の第40震洋隊長となり、昭和20年2月喜界ケ島に配編されることとなりました。そして、そこで終戦を迎えました。敵が沖縄に侵攻したのちは、敵機動部隊が喜界ケ島の周辺まで出没し、出撃即時待機となったことがありましたが、遂に出撃命令は受けることなく終りました。

終戦後ずっと君がいちばん心を痛めていたのは、玉砕島コレヒドールにいわばおきざりにした第13震洋隊の部下隊員たちの悲劇的な最後でした。隊長にすれば部下は子供も同然ですからその気特はよく分かります。もし、君が残っていたら同じ運命を辿ったに違いありません。

君は一見孤独で見栄坊でしたが、第40震洋隊の旧部下たちにはとても慕われていたように見受けられます。君が急逝したことを知った旧部下が未亡人となった奥様を見舞いに田園調布の隊長宅にかけつけています。また、君が社長だった鶴見の小野宮梱包運輸株式会社の前庭にはずっと昔から日章旗が翩翻として翻っていました。 その日章旗を見た旧海軍々人が社長の顔をぜひ一目見たいものと同社を訪問したところ、その社長が誰あろう海軍時代の隊長であった小島君その人だったとは。もうびっくり仰天し、例によって十分御叱言を頂だいして退出した由、よい話だなあと思いました。

 君は亡き戦友と戦争の犠牲者の冥福、そして平和を祈るために九州に御社を建て余生はその地で送ることを考えていました。「変人といわれるかも知れませんが、でも私に残された義務なのです」と読売新聞の記者に語ったことがあります。ともあれ人々に多大なインパクトを与えて今生を走り去った君を惜しむ気持は時を経て益々大きくなりつゝありま

す。ただ君の心残りは最愛の妻、毯子夫人のことであろうかと思いますが、どうか天上から見守ってあげて下さい。

小島君よ、安らかにお眠り下さい。そして時々は日をさまして地上の吾々を御加護下さい。

平成6年1月25日

      豊廣  

 (なにわ会ニュース71号3頁 平成6年3月掲載)

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