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平成22年5月6日 校正すみ

小跡 考三君を偲んで

藏元 正浩

海軍機関学校と旧制第3高等学校との間で定例的に行なわれていたラグビー試合を始めて見たのは入校した翌年の昭和16年の春であった。機関学校側はA・Bの2チームを編成して三高及び京都大学の3高OBチームと相対したのであったが、機関学校のBチームのフルバックで物凄く遠距離まで球を蹴返す人がいた。それが2号生徒の小跡孝三生徒であり、私の記憶に残っている彼の最初である。A・Bチーム共に殆んど1号生徒から編成されているのに2号生徒から入るにはフォワードには余程体格のよい柔道の猛者か、バックには余程の俊敏な者でなければ入れない位な構成(勿論ラグビーの練達者ばかり)であり、わがクラスはラグビーの訓練が始まった当初であった関係か一人もA・Bチームには入っていないような時期であった。彼は背たけも小さい方で色もどちらかといえば白い方なのに相手陣営のラインを狙って蹴返すその飛距離は見ている者を吃驚(びっくり)させる位であった。また彼は成績も上位であったと記憶しているが、分隊内の先任か次席ではなかったかと思っている。その後病気引入れをしたのかその顔を見なくなったが、号になったら同じ分隊になっていた。分隊の号には椎野というまれに見る猛者が居り、明けても暮れても3号生徒を鍛えていた。当時は生徒数が急激に増えた関係か知らないがプールにカッターを浮べて(もやい)をとり、それによって(とう)(そう)の練習ができるようになっていた。椎野は暇さえあればというのではなく暇がなくても号を引き連れて昼食後、訓練止め後、土曜日の自由時間、日曜日の外出許可後の上陸前の時間というふうに橈漕の練習をやっており、短艇訓練の時などは夕食に間に合うギリギリの時間まで練習を続け鍛えたものだから3号生徒の技偶はメキメキと上り、戦後聞いた話であるが、号生徒の余りの上達に吃驚した号生徒も自発的に外出時間を犠牲にして練習に励んだそうである。最初の短距離短艇競技は各分隊からチームずつ出すことになっていたが、その2チームとも断然他分隊のチームを圧しており、よく他の分隊の1号から貴様等のカッターは舟底まで漕ぐのかと冗談を言われる位であった。競技の時の艇指揮は分隊監事、艇長は1号がやるようになっていたが、両方共に予選は1位になると予想されたので分隊監事は決勝戦には分隊を持たない武官教官を別に艇指揮にお願いした程であった。決勝には予選1位のチームのみ出場することになっていた。先ず小跡が艇長のカッターが1位で予選を通過したが、その艇よりまだ早かった私が艇長をやっているカッターが予選の時に余りにも早過ぎたものだから、回頭を廻り終った時点で、回頭に入った隣の艇と衝突し(回頭の時は隣の回頭旗をねらって回頭を始めていた)その後棒抜きに抜いていったが惜しくも1位を逸した。

 決勝では小跡が艇長のカッターが優勝した。次は何日かおいて遠漕の競技になるわけであるが、この時は1、2号主体に3号の体の大きい力の強い者がメインになり、その他の者がダブルにつく。然しわが分隊では折角校内で1、2を争うチームであるから交代して漕いで、交代要領さえうまくいけば、一番よいのではないかと提案しそれを実行に移した。丁度1年前の2号時代、16分隊にいる頃2号生徒の中に、一人でずっと漕ぐよりも交代してやった方が、力が入るしうまくいくのではないかという人がいて、そのようにやったら通しで漕ぐよりも早かったし結果的にはその方が良かった。競技の時スタートでは早い方のクルーのものが漕ぎ、交代し、また最初のクルーと交代したのであるが、もうその頃は2位のカッターは遥か後方を漕いでいるような状況であった。勿論優勝したわけであるが、小跡は近距離、遠距離短艇競技に共に艇長として優勝したわけである。

次ぎの校内競技ではラグビーで頑張ろうではないかということになって練習を始めた。

日曜日なども点検が終ったあと服を着替えて練習にはげむわけであるが、下級生も何等愚痴をこぼすようなこともなく、われわれから見れば進んで参加しているという風にも思われた。小跡はキックのやり方、注意事項などをよく皆に教えていた。2号時代の分隊対抗ラグビー試合で、スクラムハーフとして活躍した椎野と私がいるものだから椎野がセブンシステムというものをやろうではないかと言い始めた。普通フォワードは8人であるがそれを7人にし、私がスクラムハーフ、小跡がスタンドオフ、椎野がバックに追加という布陣で相手陣営を撹乱するという戦法である。同じような体格のフォワード同志では1名少ないと劣勢になることは目に見えていたが、フォワードにいる古前が真面目そのもの、率先垂範型で頑張っていたからよいようなものの、フォワードは大分苦労していたようであった。

然しこの作戦はうまくいって、何時も他分隊の1号から貴様等のチームには何時もバックは一人多いがどうしてそうなるのだなどと言っていた。雨のドロンコ試合になると常に押され放しになるが、スタンドオフの小跡がポールをキックして何度か危機を救ったような場面があったか判らない程であった。然し攻勢に転じた時はこの作戦が図に当り優勝はできなかったけれども、他分隊からさして強いとは目されていなかったにも拘らず2位になったような次第であった。

分隊内では彼は何時もニコニコとしており、物事にコセコセすることなく大人の風格があり、学校で教えてもらえないような事はすべて小跡が教えて呉れるという状況であった。

 卒業して一期の候補生までは一緒であったが、その後別れ別れになっていたが、戦後國神社におけるなにわ会の慰霊祭には時折顔を出していた。確か、なにわ会を何年かに一回実施するという頃われわれもまだ若かった頃であったので、二次会、三次会というふうに流れていったが、小跡があの美声で演歌を歌い、今のようなカラオケのない時代にバンドに合わせて上手に歌うものだからアンコールの連続だった事を記憶している。

昭和40年頃、広島、呉方面研修旅行があり、広島に宿泊した時に古前に電話した処、古前が小跡と日野原を集めてくれ、次から次へと大分お世話になった記憶がある。たまたま3分隊時代の話が出た時、小跡が「6人のうち4人も生残って割合からすれば多い方だけど戦死した2人は勉強のできる者だった」と言っていたがそれから残った者の中から2人も死んでしまったわけである。

昭和60年の4月頃3号生徒から電話があり、最近機関学校時代の分隊会がよく行なわれているが、53期が1号時代の3分隊会をやったらどうか。特に3号の中では是非ともと要望しているとの連絡があった。それは大いに結構だがまず当時の分隊監事をお呼びすること、また2号生徒の意向も確かめることと返事したが、58年から行なわれている16分隊会のことも例として話をしておいた。

6月22日分隊会が行なわれ、1号は広島から小跡、神戸から椎野、3号では青森から1名、山形から2名であとは関東近隣在住の者が参会したが、その時小跡が次回から1号の俺が幹事を引き受けると言い出す程盛会であり有意義でもあった。また小跡から古前が参加できない状況などの話もあった。次回は昨年6月に行なわれたわけであるが、その時に古前が亡くなった事が話しになり、若しもということは許されないけれども、この会が1年前に始められていたら、古前も喜んで参加したに違いないと皆で残念に思った次第であった。今年の3月小跡から速達が届き「・・昨年8月下旬以降脊椎損傷による下半身麻痺で歩行不能・・・本年度の分隊会の招集その他について・」という連絡があって今年もまた分隊会はセットされたのに彼の計報に接し、本当に立派な人を失い残念でならない。

  つつしんで御冥福をお祈り申上げます。

(なにわ会ニュース57号7頁 昭和62年9月掲載)

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