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平成22年5月6日 校正すみ

北村卓也君への弔辞

金枝 健三

北村 卓也

 お見舞に訪れたその翌日の訃報に只々驚くばかり、言葉もありません。今は貴兄の安らかな眠りを只々祈るばかりです。

 顧みますと、貴兄との出会いは 昭和15年、あの舞鶴湾頭に立つ海軍機関学校でありました。全国の中学からの難関を突破し、将来の帝国海軍を担う意気に燃え、輝き一杯の時期でありました。

 厳しい訓育の中の3年間の寝食を共にした生徒館生活が、110余名の我がクラスの結束、絆、友情、連帯感を培ったと申せましょう。そして 卒業,栄えある海軍少尉候補生、戦艦伊勢、山城、そして龍田による僅か2ヶ月でありましたが、遠洋航海を経験し、その後貴兄を始め私達30名は飛行機整備学生を命ぜられ、追浜海軍航空隊において再び勉学、実習の学生生活に入ったのであります。

 そして8ヶ月後の昭和19年6月、卒業と同時に全国各地の航空隊に配属され、9月には貴兄も私も待望の戦雲急を告げる比島の第一線へ進出する事になったのであります。丁度その出発前、九州の鹿屋基地で偶然貴兄と出会い、内地での最後の想い出と二人で一晩飲み明かした事を思い出します。

 広大な比島での戦線では、貴兄と出会う事はありませんでしたが、お互い苦労をしましたね。そして終戦、貴兄は終戦半年程前に施行された航空隊の「空地分離」の「地」の航空隊でしたので復員は遅れましたが、復員後は日産自動車に入社、貴兄の卓越した知識と技術と、そして頑張りにより設計の枢要な地位に昇り、ついで系列の豊橋の「リズム」の社長として、10有余年の長きに亘りその重責を果たされました。 昨年7月、例年の整備学生会で既に胃の手術で入院が決まり、意気消沈していた私を貴兄は励ましてくれましたね。当時 貴兄は健康そのものでした。顔の広い貴兄は月何回もゴルフに出掛け、スポーツクラブでは得意の水泳は勿論、各種器具を使用してのトレーニングに励み、ドッグにも定期的に入って健康管理には万全を期していました。その貴兄が私を励まして呉れた7月の直ぐ後の10月に肺の手術、そして今年の1月には脊椎の手術をするとは、何とした事でしょう。そして今 私は貴兄の遺影の前に立っているとは…・・。

 貴兄は入院中、回診に見えた医師に、人の生命を論じ、死の尊厳を強調し、延命治療の愚を展開されたとか、私が最後に見舞った時も貴兄の身体には点滴の管一本も付いていませんでした。只 透明なマスクで酸素を補給はしていましたが、顔色も良く、やつれも全く無く、それは綺麗な顔でした。従容とした姿でした。これこそ武士「もののふ」の姿と申すべきでしょうか。見事な姿でした。

 人は誰でも何時かは別れが来るとは申せ、ここで貴君と別れるのは辛く、悲しく、残念で堪りません。こんな事なら暖かくなってからなどと言わず、もっと早くおしかければ良かったと悔いが残ります。もう繰り言は止めましょう。

 これからは、貴兄の最愛の奥様、お嬢様夫妻、お孫さん達、そしてご親族の方を天の上からお護り下さい。今までの長い付き合い本当に有難う。クラスを代表して御礼申し上げます。 それでは名残は尽きませんが、御冥福を祈り、別れの言葉とします。

              平成10年3月9日                
海軍機関学校第53期代表  金枝 健三

(なにわ会ニュース79号11頁 平成10年9月掲載)

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